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立ち読みコーナー
父からの贈りもの
長岡輝子
 私の父と母

 私の記憶は三才から始まる。当時、私の一家は麻布箪笥町の高台に住んでいた。
 目の下の街をへだてて、向こう側の崖の上に西洋人が住んでいた。開け放された窓という窓に、白い寝具が陽をいっぱい浴びて干してあり、頭のはげた西洋人が行ったり来たりしていた。女の西洋人はいなくて、和服を着た日本の女の人がいた。もちろん目鼻立ちがわかるほど近くはないので活動写真か操り人形を遠くから見ていたような気がする。ベランダで白い寝巻を着たハゲさんが鏡を反射させてヒゲを剃ったり、夏の夜おそくまで電気をつけてビールを飲んでいたりした。
 当時、九歳だった妙子姉さんも、今では七人の曾孫がいるが、先日合ったときにその話が出た。
 「あのハゲさんはユンケルさんというドイツ人で、音楽学校の先生をしていらしたのよ。ほら、毎日あきずにかけてた曲、おぼえてる? 『トラバトーレ』の中にでてくる『アンヴィル・コーラス』……」
 私は頭の中で「アンヴィル・コーラス」を繰り返してみた。と、今から七十年も昔、毎日のように風にのって流れてきた、あの出だしの爽快なメロディが、消えていた幼い日の私をだんだんはっきりと映し出してくれるのだった。
 青草と赤土のだんだらな崖の下には家がたくさん並んでいて、そこの露地を、金モールのついた黒い軍服を着た薬屋さんが、手風琴を鳴らしながら、
 「クースリヤさんが来ィましたヨー、なァにか買って、くうださいなァ」
 と節おもしろく売りにきたけれども、あのころの私は大変な泣き虫で、家を一歩外に出ると怖いものだらけだった。
 おわいやさんの「オワァイ、オワイ」という掛け声が聞えると、「テルコ、テルコ」と自分をつかまえにくるのだと思っていたし、谷町へ下りる途中のお寺の山門に、印半纏を着た男が寝ていれば、人さらいにちがいないと思い込んでいた。そして一番怖かったのが、観音像を祀った箱を背中につけた山伏のような人だった。背中の箱には、古ぼけた人形や死んだ人のと思われる髪の毛、色褪せた子供の写真などがいっぱいぶらさがっていて、なんとも気味が悪かった。あのころの子供の遊びに、「千手観音拝んでおくれ」といいながら、ひとりひとりを背中合せにおぶって歩く遊びがあったけれど、あれをまねたものだったのだろうか。
 ある麻のこと、家のまわりを掃いていた女中が大声で家へ駆け込んで来て、
 「ものすごいウンコが塀のところにしてあります」
 という。十一歳になる兄や妙子姉さんや、私のすぐ上の七つになる百合子姉ちゃんたちの話では、それは泥棒のウンコだというのである。泥棒がウンコをするのは捕まらないおまじないなのだそうだ。みんなの顔は深刻だった。もうあのそばのペンペン草もハコベも摘めなくなってしまった。尻っぱしょりに手拭いで覆面をした真黒な泥棒が家のまわりをウロウロしてるんだ。そう思うと私はもう怖くて、お茶の間にいるお祖母さんの背中の下にうずくまってしまうのだった。そんなふうだったから、保母さんの学校へ通っていたタマちゃんと一緒にお使いに行くときも、ちょっとでもタマちゃんの手をはなさなかった。タマちゃんは私のお守り役で、私の作り話の「神楽坂のみさいさん」を本気で聞いてくれた。神楽坂に知合いがいたわけでも行ったわけでもなかったのに、私の作り話の主人公はいつも「神楽坂のみさいさん」だった。


長岡輝子
明治四十一(一九〇八)年、盛岡市生まれ。東洋英和女学校をへて渡仏。帰国後の昭和六年、演出家の金杉惇郎と劇団テアトル。コメディを結成。翌年、金杉と結婚。金杉の死後、文学座に入り、演出家・女優として活躍。昭和十九年、実業家の篠原玄と再婚。戦後は舞台、映画、テレビに幅広く出演。昭和三十九年、ウェスカー「大麦入りのチキンスープ」で芸術祭文部大臣賞、四十五年、デュレンマット「メオテール」で紀伊國屋演劇賞を受賞。四十六年、文学座退座後は「長岡輝子の会」をはじめ、多彩な活動をつづける。勲四等瑞宝章、NHK放送文化賞を受ける。