www.soshisha.com
立ち読みコーナー
玉砕しなかった兵士の手記
横田正平

友の屍と二人いる静けさ

 駆逐艦が闇に消えたあとの海は、なんの音もしない。そして、なんにも見えない。どこまでも深い深い闇があるばかり。水の重みを体に感じる。満々とした海の厚みを感じる。僕はそのなかに、ほんとうにたった一人でおかれていた。人間はほかに誰も生きていない。僕は体の力をすべて放して、海と闇に体をほうり出した。頭を後ろに倒して、救命胴衣の背中の部分にもたせかけた。
 「おれはどうなるのだろう」
 放心したなかで、ぼんやり自分に聞いてみる。生きているあいだだけ、生きているのだろう。それから、どうなるだろう。暗闇に融けるのだろう。それは少しもどぎついことに思われない。人間が生から死へ移るときは、大きな衝撃があって、泣きわめき、もがき苦しみ、──そういう大事件を通して人間の死はくるのだ、といままで僕は考えていた。しかし、いまの僕にはそうは思えなかった。はてしない大海原に漂っている垢としか、自分が思えなかった。時間がたてば、自然に海水に融けこんでゆくとしか思えなかった。肉体の融けるのと同じ歩調で、精神も融けてゆくのだから、精神の抵抗もないだろうとしか思われなかった。
 「あー、あ」
 僕は、ほんとうに声に出して、大きな深い溜息をついた。終わったのだ、という感慨があった。家族がみんな遠くへ出ていってしまった大きな広々とした家に、一人で天井をながめて横たわっているような気分だった。悔恨もなかった。悲しみすらなかった。死ぬ時間がくるまで、勝手なことを考え、気ままなことを一人でしていようと思った。


 すぐ近くに角材が浮いていた。これに両方の腕を深く脇の下まで入れて、もたれかかった。さっきまで十数人でつかまっていたあとなので、じつにぜいたくな家に寝そべった思いがした。歌でも歌いたい気持だったが、わざとらしくなりそうなので、やめた。また材木が目についた。同じように長い丸太である。泳いで近づき、左腕を入れた。二本の材木に、かたみに二本の腕をもたせかけると、体が楽々と安定し、まったく力を使う必要がなかった。今度は両脚ものっけて、仰向けになってみた。寝台に寝そべった気分である。丸太がぐるぐると回って、体がすべり落ちそうになった。
 そのとき丸太の先のほうに黒い荷物がくっついているのを見た。丸太をたぐっていって、さわってみた。手ざわりが重い。何かすぐには見当がつかない。手が、ぬるぬるしたものにふれた。人間の顔だ。死んだ兵隊だ。一人呑気でいるところへ思わぬ闖入者が現れた。
 丸太から放してやろうと思ったが、死体は綱でしっかり丸太に縛りつけられていた。「救命綱」に命をとられた兵隊。──どんなときでも、救命綱の結び目を知っており、すぐほどけるようにしておくことは、教えられなくとも、泳いでいるうちに、考えついたことだった。結びきりにしてしまうと、波や他人の動きで材木が回転したり、動揺した場合、自分の身体を安定させることができない。
 僕はしいて屍体をはずす気にならなかった。不気味さを感じないのが不思議だった。二人でいてもいい。同じことだと思い直した。──それからの記憶がない。とろとろと眠ってしまったらしい。