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立ち読みコーナー
ある日系二世が見たBC級戦犯の裁判
大須賀・M・ウイリアム / 大須賀照子 訳 / 逸見博昌 訳
はじめに

 第二次世界大戦も末期に近づいた一九四五年七月、サンフランシスコから二十一日間かけて、フィリピンのマニラに、また新たにアメリカ軍隊が上陸した。そのなかには、私を含め約二百人の日系アメリカ軍人がいたが、全員、通訳として送られてきたのである。
 翌月の八月十五日に戦争が終わり、それ以降、私は数多くの日本兵俘虜と接触する機会ができた。俘虜のなかには、アメリカ兵である私が日本人の顔をしているので、そのことを口に出して喜んでくれる者も多くいた。
 日がたつにつれ、俘虜たちは心から打ち解けて、戦争の体験談や当時の心境をまるで友人に話すように私に語ってくれたことが思い出される。彼らのなかには、「いずれアメリカ軍にとりあげられるのだから、その前に記念品としてとっておいてほしい」といって、双眼鏡、時計、軍旗などを差し出す者もいた。
 そして、一九四五年十月、敗戦を受け入れた日本へ行くため、私たちはフィリピンをあとにし、海路横浜へと向かった。私が横浜BC級戦犯裁判にかかわったのは一九四六年のことで、当時、私は二十四歳、アメリカ陸軍の軍曹であった。私の任務は、アメリカ陸軍将校の弁護人と、元俘虜収容所長であった二人の戦争犯罪被告人および弁護人側の証人とのあいだの通訳を担当することであった。
 そのころの私は、自分に与えられた仕事を忠実に果たしていたが、一方では、一日も早く帰国し、卒業までにあと一年残っている大学にもどる日のことを考えていた。しかしいまでは、当時のことをいつになく思い出し、被告人たちともっと親しくなっておけばよかったといささか後悔している。
 私が当時のことをここに書きとめておきたいと思ったのは、私のかかわった被告人に下された判決に大きな驚きと疑問を感じ、今日までずっと心の片隅に残っていたからである。
 そして、この数年間、私はBC級戦犯に関する資料を集め、調査を進めた。
 BC級戦犯の問題については、英文の文献は数が少ないが、日本では雑誌の記事も数多くあり、また単行本も出版され、日本人にとっては現在でもなおこの問題について興味や関心があるように思われる。
 ただ、日本人の著者によって書かれたBC級戦犯ないしはその裁判に関する著述は、戦犯とされた被告人の手記や手紙などをもとにその困難な境遇を詳しく述べ、さらには彼らの家族の様子を描き、最後に戦犯裁判の公正さ、必要性についての疑問を提示するという、おおよその共通点をもっているように思われる。
 そこで私は、本書をまとめることにより、BC級戦犯裁判そのものの様子を数多くの連合国軍俘虜とかかわったアメリカ人の観点から眺めることによって、日本人の手になる著述にいささかでもつけ加えるものがあればこれに勝る喜びはないと考えている。
 具体的には、四十数年前に私が直接かかわりをもった元日本帝国陸軍大尉平手嘉一と、元日本帝国陸軍大尉坂本勇七の二つの戦犯裁判について語ってみたいと思う。両人とも日本国内にあった俘虜収容所長であった。
 平手大尉が所長をしていた収容所では、五百人の俘虜が収容され、五十三人の死者を出し、一方、坂本大尉が所長をしていた収容所では、九百人の収容者のうち百三十三人の死者を出している。
 坂本大尉に関する資料は少なく、裁判の内容もこれだけであればとくに取り上げて書くほどのものではないのであるが、人間の性格の面でも、また軍人としての生い立ちの面でもきわめて対照的な二人の俘虜収容所長の裁判を比較してみていただくために、あえて両者の裁判の様子を語ることにした。
 そして、「戦争」という人間にとってきわめて異常な状況のなかで、しかも敵方の兵士を収容する「俘虜収容所」という特殊な場所で、いったい人間同士のあいだでどういうことが起こったのか、あるいは起こったとされているのか、そして、その責任を負わされた二人の俘虜収容所長がそれぞれどういう裁きを受けることになったのか、その事実を知っていただきたいと考えている。
 そのうえで、このような戦勝国による戦犯裁判がそもそも公正なものでありうるのか、あるいは公正なものであったのか、また、その裁判の結果が適切なものであったといえるのか、さらには、そもそも戦争とはどういうものかについて、読者の皆様にも考えていただければ幸いである。
 横浜軍事法廷でおこなわれたBC級戦犯裁判の多くは、俘虜収容所で起きた虐待行為の責任を問われたものである。日本にあったどの俘虜収容所でも、連合国軍俘虜たちはほぼ同様の虐待行為を受けたが、なかには、逃亡を試みた俘虜や、撃墜された飛行機の搭乗員に対する死刑執行、銃剣による刺殺、生体解剖、医学研究のための人体実験といった例外的な事件もあった。
 平手、坂本両大尉の収容所ではこのような異常な事件は起こらなかったため、その点では刺激的な要素に欠けるかもしれない。しかし、それは、大部分の収容所で共通に起こったこと(たとえば、俘虜を殴ること、病気やけがをした俘虜を虐待すること、医薬品や食糧、医療品を与えなかったこと、俘虜に分配されるべき赤十字社その他からの供給品を日本兵が懐に入れてしまったことなど)を示しているという点では、かえって重要な意味をもっているのである。
 二人の裁判は、それぞれ六人のアメリカ陸軍の幹部将校によって構成された軍事委員会のもとでおこなわれた。約二週間にわたる裁判のあいだ、私は弁護人、被告人とともに裁判のなりゆきを逐一見守っていたのであるが、時がたち、裁判の詳細についての記憶はだいぶ薄れている。そこで、アメリカのメリーランド州スーツランドにあるナショナル・レコード・センターに所蔵されている記録を求めることとし、約二千頁に相当するマイクロフィルム化された平手元大尉に関する資料と、約九百頁に相当する坂本元大尉に関する資料を入手した。入手した資料の内容は次のとおりである。
 (1)罪状項目
 (2)検察官側と弁護人側の証拠物件
 (3)法務官検審書
 (4)裁判に関する法規
 (5)平手元大尉助命の嘆願書九十一通
 裁判から四十数年も経過したいま、これらの資料をもふまえ、当時を回顧しつつ、戦犯裁判の様子を語ってみたいと思う。
 一九九一年、今年は太平洋戦争がはじまってちょうど五十年目に当たる。そして、半世紀にわたる時の流れのなかで、この戦争について、また、その後おこなわれた戦争犯罪人を裁いた軍事裁判について、確たる知識をもつ人はきわめて少なくなっているのではなかろうか。
 こうしたなか、本年一月、湾岸戦争がはじまった。日本をはじめ世界中の人びとが、テレビなどを通じ、生々しい「戦争」(それは、太平洋戦争当時のものとはまったく異なる様相で展開された)の姿を身近に見せつけられた。また、多国籍軍およびイラク軍双方の「俘虜」の姿を見、イラク軍兵士によるクウェート国民などに対するさまざまな「残虐行為」が報じられるのを聴いた。
 また、この戦争のさなかに、アメリカ政府筋から戦争終了後、イラクのサダム・フセイン大統領を「戦争犯罪人」として「国際裁判」にかけるべきだという主張がなされ、さらに、戦争が終わって俘虜の交換がおこなわれたのち、多国籍軍の兵士がイラク軍兵士によって虐待を受けたとし、虐待したイラク兵を「戦争犯罪人」として裁く必要があるとの主張がなされた。
 全世界の人びとの願いもむなしく、ふたたび大きな戦争がはじまり、そして終結したが、まさにこの時期に、私が長いあいだ抱きつづけてきたテーマ(戦争、戦争犯罪、軍事裁判など)について私の体験をまとめたものが出版されることの不思議なめぐりあわせに、何ともいえぬ感慨をおぼえている。
 この本が、戦争のない世界を願い求める日本の人びとに読まれ、あらためて「戦争」について考えていただくことになれば幸いである。