www.soshisha.com
立ち読みコーナー
米軍が記録した日本空襲
平塚柾緒
 昭和十九年六月十五日、北九州の八幡製鉄所に対する空襲で始まったB29による日本本土への攻撃は、昭和二十年八月十五日の終戦の日まで一年三カ月続けられた。
 『米陸軍航空部隊史』によれば、この間に出撃したB29は延べ三万三千四十一機という。そして連合軍機(大半は米軍機だったが)が日本本土に投下した爆弾の量は十六万八百トンにおよぶ。このうち戦略爆撃機B29が投下した爆弾は十四万七千トンで、九一%を超えている。
 この数字を見れば、日本の主要産業と都市はB29によって破壊・壊滅されたといっても過言ではないと思う。
 もう少し数字を挙げれば、米軍が日本空襲の基地を中国からマリアナ諸島に移し、本格的な都市空襲を開始した昭和十九年十一月末から二十年八月十五日までの九カ月間に、日本が被った人的被害は死傷者約八十万六千人で、このうち三十三万人は死者である。この死傷者数は、いわゆる太平洋戦争全期間における軍人の戦闘損害七十八万人を上回っている。これらの数字は、日本の敗戦と同時に逸早く来日して日本の空襲被害の実態、アメリカ側からすれば「戦果」の実態を調査した米国戦略爆撃調査団の公表数字である。
 
 私たちはこの写真集を編集するために、全国に作られている「空襲を記録する会」や市町村がまとめた文献にできるだけ目を通した。そこで困ったのは、人的被害数や焼失家屋数が資料や出典、調査機関(たとえば自治体、警察など)によってかなり違うことだった。またB29の来襲機数も日本側と米軍側では違い、さらに米軍の数字でもマリアナの基地を発進した機数と日本の目標上空に到達した機数は当然違うにもかかわらず、米軍側の数字には必ずしもその区分けが明記されていないことだった。
 行政機関や警察関係といえども空爆の被害者であり、私設も戸籍簿や住民票といった資料も焼失するという極度の混乱の中の調査であれば、日本側の数字がまちまちなのは致し方のないことである。戦後訪れた米国戦略爆撃調査団の数字も、基本的には日本側のこれらの数字を元にしているから、絶対的な数字ではないだろう。だから数字はあくまでも「約」であり、「おおよそ」と形容詞をつけたほうがいいかもしれない。
 そこで私たちは、人的・物的被害については地元機関の数字を優先し、来襲機数については米軍の公表数字を優先することにしたのだった。

 それはともかく、日本本土に落とされた十六万八百トンという爆弾に対して、『米陸軍航空部隊史』はこう記している。
 「米国戦略爆撃調査団は、ドイツに対して投下された爆弾量が百三十六万トンであって、B29が日本に使用した弾量の約九倍であったが、日本の受けた損害は、ドイツのそれとだいたい同じであったと推定した。
 日本ではドイツよりも、攻撃は時間的にも地域的にもより集中されたし、目標は脆弱であったし、防衛法はより有効でなかったし、また修理と再建速度は、より遅かったのであった。六大都市の建物密集地区の約四〇%が破壊され、一方では高性能爆弾により各個に攻撃を受けた諸工場の様相はドイツにおけるよりも“一般に、より完全に”破壊されたものであった」(『東京大空襲・戦災誌』同誌編集委員会編より)

 では日本の軍需産業を破壊し、国民の抗戦意欲をそぎ、ついにギブアップさせたのは本当に空襲だったのだろうか。米国戦略爆撃調査団の結論は「ノー」だった。
 日本本土周辺意外の制海・制空権が連合国に移った昭和十九年半ば以降、日本のあらゆる生産力は減少の一途をたどった。その原因は空襲ではなく、制海権の喪失と船舶不足、二十年に入ってからば本土周辺海域の機雷封鎖による原料輸入の途絶が原因であると、各データをあげて指摘している。
 そのうちの二、三を紹介すれば、たとえば鉄鋼生産がある。当時の日本は鉄鋼生産に必要な上質鉱石とコークス炭の一部を輸入に頼っていた。この艦船建造や飛行機生産、武器弾薬の生産に欠かせない鉄鋼の国内生産は、最高期の昭和十八年には五百六十万トンあったけれども、翌十九年には四百三十万トンに減っている。これは廬溝橋事件によって日中戦争が始まった昭和十二年頃の水準であるという。昭和十九年といえば、米軍の本土空襲はまだ本格化していなかった。それでも生産力は激減していたのである。
 精油工場は空襲によって八三%が破壊されたけれども、すでに原油の輸入自体が激減しており、仮に精油私設が無傷だったとしても生産量は最高期の一五%に落ち込んでいたろうといわれる。また空襲による施設への被害はわずか一五パーセントにすぎなかった造船所も、昭和二十年には最高期の二五パーセントにまで落ちていた。最大の原因は鉄鋼の不足であった。
 そして戦略爆撃調査団は、日本の主要工業に対する空襲の降下は、制海権の奪取など海上封鎖によって生まれた輸入不足の降下よりも少なかったといい、マリアナの爆撃軍は、もっと日本の船舶攻撃と海上封鎖に力を入れたほうがよかったのではないかと暗に示唆している。

 ただ言えることは、日本空襲が日本人に与えた“戦意”への影響、すなわち精神的影響がいかに大きかったかということである。戦略爆撃調査団の資料をもとに、『米陸軍航空部隊史』は欠いている。「日本の敗北を信じた人々の比率は一九四四年十二月には一〇パーセント、一九四五年三月には一九パーセント、六月には四六パーセント、降服直前には六八パーセントに増加していた。究極的敗北を信じていた人々のうち、半分以上は敗北の主な原因を“原爆攻撃よりもむしろ空襲である”とした。戦争末期までに人口の六四パーセントの人々は、彼らは“個人としては戦争遂行についていけない”と感じるほどになっていた」(前出書)

 日本の都市と人々の心を焼き尽くした日本空襲。そしてB29が日本の空から消えて五十年──私たちは〈アメリカはなぜ、どのようにして日本空襲を行ったのか?〉という視点の中で、この写真集を編集した。日本空襲に関する刊行物は膨大といってもいい。しかし、その多くは〈いかに大きな被害を受けたか〉という“被害者”の視点からの出版物が大半を占めている。それも大事である。しかし、ことが戦争であるかぎり、被害者もまた加害者であるということを忘れてはなるまい。
 この地球上から己の主張を通すために武力に訴えるという愚がなくなれば、加害者も被害者も生まれなくてすむのだが……。


平塚柾緒
一九三七年、茨城県生まれ。週刊誌・月刊誌の記者、編集者を経て、出版プロダクション(株)文殊社代表。太平洋戦争研究会、近現代史フォトライブラリー主宰。主な著書に『生きている陸軍刑法・敵前逃亡』(共著)『太平洋玉砕戦』『秘蔵写真で知る日露戦争(1)(2)』『秘蔵写真で知る真珠湾攻撃』『図説太平洋戦争』(共著)『米軍が記録した日本空襲』『日米中報道カメラマンの記録・日中戦争』などがある。