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立ち読みコーナー
神風特攻隊員になった日系二世
今村茂男 / 大島謙 訳

はじめに

カミカゼの連想
 一九七八年(昭和五十三)年十二月七日(パールハーバー・デー)の約一週間前、「ザ・ステート・ニュース」というミシガン州立大学(MSU)学生新聞のデビー・クリーマーと名のる学生記者から電話があった。その電話はインタビューの申し込みだったのだが、それは私にとって特別目新しいことではなかった。一九六一年にMSUで教鞭を執りはじめて以来、私はほとんど毎年のように学生のインタビュー実習の標的にされたのだった。それはおそらく、私が元神風特攻隊のパイロットだったということが何かのはずみで外部に漏れていたので、アメリカの若者の間で好奇心の的となったからだろう。このようなインタビューはニュース記事になったが、しかし、それはたいがい大学新聞の、何面かにからかい半分の小さな記事として載ったのだった。
 ところが今回は少し様子が違っていた。デビーがかなり真剣な面持ちでインタビューに現れただけでなく、カメラマンまで連れてきて、インタビュー中の私の写真も撮りたいということだった。「どうしてこんなに大袈裟なんだ? 真珠記念日三〇周年はとっくに過ぎたし、四〇周年はまだ何年も先なのに」と不思議に思ったのだが、やがてその理由が分かった。
 このインタビューを受ける何週間か前、九〇〇人を超えるアメリカ人が南米ガイアナのジョージ・タウンで集団自殺をしていた。「リーダーから『これがなすべきことだ』と言われたという、ただそれだけの理由で、なぜ彼らは自殺しなければならなかったのだろう?」──こうした想いは多くのアメリカ人の心に間違いなく何かをもたらしたに違いなかった。
 「ちょっと待てよ、こんなことが以前にも起こらなかっただろうか。そうだ、日本の神風特攻隊だ。彼らは、死して国を守れ、と言われて潔くそうしたんだよ。おい! まさにここミシガン州立大に神風パイロットがいるじゃあないか。彼がこのジョージ・タウン事件をどう想っているか聞きにいこうよ」
 もちろんこれは、大学新聞がデビーとカメラマンを送り込んだいきさつを私が想像してみたものだが、その後のインタビューで、多かれ少なかれこの推測が正しかったことが確認できた。
 その記事は、「ザ・ステート・ニュース」十二月一日号の第一面に、“Kamikaze now a ‘U’ teacher” という見出しで二枚の写真とともに掲載された。写真の一枚はインタビュー中に研究室で撮ったもの、もう一枚はカメラマンに頼まれて私が貸し出したもので、これは戦時中に飛行服で撮った一枚だった。その記事で私は、米国に生まれ、一〇歳になる時に両親とともに日本へ戻り、成長したのち、旧制の高等専門学校に進学し、その後日本の海軍飛行科予備学生に志願し、「零戦パイロット」として訓練され、ついには神風特別攻撃隊に志願した、と紹介されていた。そして、次のようなインタビュー中の私の話を引用して記事は終わっていた。「正直にいって、われわれはその時、自分たちが何のために戦っているのか(戦うべきか)を信じていました。人々のなかには、第二次世界大戦なんて昔のことだ、今ではもうあんな残酷なことや自己犠牲的行為がまた起こるなんて信じられない、と考える人たちがいることでしょう。さて、ところが今ガイアナでは(似たようなことが)起こってしまった。これから先、こんなことがまた起こらないとは限りません」
 私が研究室でその記事を読み終えた直後、部屋の電話が鳴った。電話の主は、UPIの記者だと身元を明かし、「大学新聞を読みました。ついてはあなたの経歴についてさらに詳しく聞かせてほしい」と言ってきた。一時間半も電話で話したにもかかわらず、私は電話を切った途端にそのことをすっかり忘れてしまった。その後、十二月七日の朝早く、自宅に電話がかかってきた。今度は、ウエスト・バージニア州のモーガン・タウンという町にあるラジオ局のディスク・ジョッキーからだった。最初に、ラジオの生番組でのインタビューの承諾を請い、続いて私がどうして生き延びられたのかを質問してきた。しかしそれはほんの始まりにすぎなかった。UPIが私の記事を世界中に配信したことは明らかだった。その日一日だけでなく、その後何日もの間、友人たちや記事を読んだというアメリカじゅうの見知らぬ人たちから、電話や手紙を受け取ることになってしまった。しかも、はるか英国や南アメリカに暮らす知人からも届いたのだった。それらはどれも、敵意のあるものではなく、私が生き残ったことを祝福してくれるものだった。

何が忠誠心を変えさせたのか
 しかし私自身の心の奥底では、そんな人たちであったとしても、「彼はアメリカに生まれて、途中までとはいえアメリカの教育を受けたのに、なぜ、アメリカと戦っている日本に喜んで命を捧げる気になれたのだろう? 何が彼の忠誠心を変えさせたのだろう? なぜ、戦争が終わってわずか一カ月も経たないうちに再び忠誠心を翻し、通訳・翻訳者とはいえ、アメリカ軍の下で働きだしたのだろう? 今や日本では、こんなことを誰もがやっているのだろうか」と自問していることだろう、と考えざるを得なかった。
 私自身、この何十年もの間、同じような問いを自分にくり返し発してきたのだが、はっきりした答えを見出すことはできないままだった。
 ところで私は、これまでに何人もの友人、特にアメリカ人たちから、自叙伝を書くように勧められていたのだが、最近になってやっと、自分の想いを書き出せば、あるいは答えに行き着くかも知れないと思えるようになったのである。たとえその結果が明快なものでなかったとしても、これを読むことで、人は人生のある時期においていかに強烈に、自分の生命すら犠牲にすることをいとわないほどに信じ切った何かがあったとしても、後年になってみるとその時ほどには信じることができなくなる、ということがあると分かってくれるかも知れない。願わくば、この本が今、世界じゅうに存在するたくさんの心労や精神的な緊張を和らげることに役立ってくれることを祈ってやまない。もしも、もっともっとたくさんの人々が、いかなる論争も、意見の相違も、それが政治的なことであれ、経済的なことであれ、社会的あるいは宗教的なことであれ、自分の生命を含めて、人間の生命を犠牲にするほどの価値などないのだということに気付いてくれるようになるのなら、これを書くことの意味があるだろうと思う。
 読者の皆さんに念のために申し上げておきたいのは、これは歴史や政治学あるいは社会学についての論文ではないということである。もし、この物語の中の細かな点で不正確な記述があったとしたら、どうかそれは私の無知、誤解、記憶の喪失の結果だとお考えいただきたい。何といっても、ここに書かれたことは半世紀も前に起こったことなのである。