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立ち読みコーナー
書きあぐねている人のための小説入門
保坂和志
 なぜ、ストーリーを作るのは難しいのか

 小説のストーリーについて考える前に、「面白い小説」とは何か考えてみる。
 まず、私にとって「面白い小説」とは、最初の一行を読んだら、次の行も読みたくなり、その行を読んだらまた次の行も読みたくなり……という風につながっていって、気がついたときには最後の行まで読んでいた──そんな小説のことだ。

 私の小説から「保坂和志」という人間について、あるイメージを持っている人には意外かもしれないが、私はとても飽きっぽい。というか、つまらなさに絶えられない。世の中には一度読みはじめた小説は最後まで読まないと気持ちが悪いという人がけっこういるけれど、私は最初の一〇ページくらい読んでつまらないと思えば、そこで読むのをやめてしまうし、たとえ三〇〇ページある小説の二五〇ページまで読み終わっていたとしても、そこでつまらないと思ったら、残りは読むのをやめてしまう。
 自分がそんな風だから、小説の書き手は、最初の一行と最後の一行の間を片時も読者の興味をそぐことなく埋めていくにはどうするか、ということをずっと考え続けなければならないと思っている。

 さて、そこでストーリーなのだが、ストーリーとは、読者の興味を最後までつなぎとめておくためのひとつの方法なのだと思う。
 ただ、そういうストーリーをつくるのはものすごく難しい。
 理由のひとつは、二〇世紀後半から二一世紀へと至った今、輪郭のはっきりしたストーリーというのは出尽くしてしまっているということだ。

 たとえばこんな話がある。昔、宣教師が食人種の住む島に行き、島の人々に人間を食べてはいけないということを一生懸命、教え諭そうとした。しかし、島の住人たちはちっともわかってくれない。すると、その宣教師は、「明日、赤マントを着た男がこの村を通りかかるから、その人を最後にして人間を食べるのをやめなさい」と言う。次の日、彼の言ったとおり、村に赤マントの男がやってくる。島の住人たちはその男を殺して食べようとしたのだが、彼らが殺した赤マントの男はじつは件の宣教師だった。それ以来、彼らは人間を食べるのをやめた──。

 なんというくっきりとした話! この話、じつは母親の小学校時代の教科書に載っていたもので、私は、小学校一年生くらいのときに母親から聞かされたのだった。以来、今にいたるまでそのストーリーを覚えているわけだが、それは昭和五年生まれの母親にしてもおそらく同じだろう。
 輪郭のはっきりしたストーリーというのは、ダイレクトに心に飛び込んでくる。そのメカニズムがどうなっているかの説明は評論家か心理学者にでも任せるとして、輪郭がはっきりしているということは、口頭で伝えることができるということで、人物造形とか細部の出来不出来なんか問題にならない。私は、ストーリーとは本来そういうものだと思っているが、はたして今、こうした輪郭のはっきりしたストーリーが書けるかどうか。
 あらゆる物語のパターンは、きっと旧約聖書の仲にあり、その後書かれた物語は多かれ少なかれ、そのバリアント(変奏)だろう。“読者をアッと言わせるような波瀾万丈のストーリー”という惹き文句の長編小説があったとしても、プロットごとに見ていけば、すべて既成の組み合わせというものがほとんどのはずだ。

 しかし、そんなことを言われても、たいていの人は面白いストーリーを読みたいと思っている。分析してみれば過去に書かれた小説と同じだと言われても、ふつうの読者は評論家じゃないんだから、中世のヨーロッパを舞台にしたラブ・ストーリーが現代の日本に形を変えただけの小説でも、パターンの同一性なんかに気がつかず、十分に楽しむことができる。──場合によっては、書いている作者自身がパターンの同一性に気づかずに「すごい!」と思っているかもしれない。それは創造性がないだけで、盗作ではないから罪にはならない(とはいえ、広い意味では無知を自覚しないことは罪なんだけど)。


保坂和志
一九五六年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。九〇年、『プレーンソング』でデビュー。九三年、『草の上の朝食』で野間文芸新人賞。九五年、『この人の閾』で芥川賞受賞。九七年、『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。他の作品に『猫に時間の流れる』『残響』『カンバセイション・ピース』など、エッセイに『世界を肯定する哲学』『言葉の外へ』など。