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立ち読みコーナー
アドルフ・ヒトラーの一族
――独裁者の隠された血筋
ヴォルフガング・シュトラール 著 / 畔上司 訳
第1章「一家の秘密」より

 今から述べる筋書きは、まるで難解な映画のシナリオみたいだ。男と女が結婚しようとするが、そのとき突然、本当は結婚できないことが判明する。やりきれないことに、二人は血縁関係にあったのだ。だから法的には近親結婚になってしまう。近親相姦。しかもこの話には特別の趣向が凝らされていて、花婿は自分の父親が誰なのか、よく知らなかった。彼の母親が相手の名前を墓のなかに持っていってしまったのだ。しかも、映画監督がシナリオをさらにドラマチックにしなければ気がすまなかったかのように、花嫁はすでに臨月間近で、二人はどうしても結婚しないわけにいかない。
  監督はこれでもまだ不満とばかりに、ほかの女性、それも花婿の本妻を登場させて、筋をいっそう盛り上げる。本妻が危篤状態にあるというのに、隣室では愛しあう二人がセックスに興じているのだ……。
 やりすぎ? いやいや、とんでもない。これこそヒトラーの家庭の実態だったのだ。ヒトラー家にようこそ! 主役の男女はアロイス・ヒトラーとクララ・ペルツル。二人はのちに、世紀の犯罪者の両親として有名になる悲しい運命にある。
 長身で清潔なクララに路上で出会った隣人たちは、その優しそうな顔、青みがかった灰色の目、こざっぱりした身なり、きれいに後ろになでつけた髪から判断して、彼女の子どもが悪人になることなど想像もつかなかった。クララは物静かな女性だった。親類や友人は彼女のことを、礼儀正しくて丁寧で控えめだと言った。家庭内ではきちょうめんなくらいだと。
 若きアドルフにとってはこの母こそ、家庭内での頼みの綱だった。のちに彼は亡き母を過度に崇拝することになる。今も残っている母の写真を、ヒトラーは壁をはじめとしてどこにでも掛けていたし、第一次大戦中の塹壕内ではそれを胸ポケットに入れていた。のちに彼は、母の肖像を聖像のように美化させた絵を何枚か描かせているし、母の誕生日である八月一二日を「ドイツの母の記念日」として尊んだ。こうしてドイツ全国民が、ヒトラー個人の思い出を共有することになったのである。
 彼の著書『わが闘争』のなかで彼は母のことを「家事に没頭し、とくに私たち子どもたちにはいつも同等に優しく心配りをしてくれた」と紋切り型の賛辞を寄せ、「私は父親のほうは尊敬していたが、母親のほうは愛していた」と芝居がかった告白をしている。またのちには総統本部内での談話で、母親崇拝の根拠としてこう独り合点をしている。「母はドイツ民族に偉大な息子を贈ったのだ」
 母クララは同時に、ヒトラー家の系譜において要所を占めてもいた。アドルフ・ヒトラーを産んだからだけではない。彼女の出自を明確にすることによって一族の暗黒面が明るみに出て、のちのドイツ首相の原点がはっきりするからだ。クララはヴァルトフィアテル地方で育った。オーストリア北部、ボヘミアとの国境近くに位置する貧しい地域で、そここそはヒトラー一族の揺籃の地である。クララはこの地で、のちに夫となるアロイスと知り合う。一八八五年一月七日にクララは彼と結婚するが、この男はそれまでにすでに波瀾万丈の生活を送っていた。



ヴォルフガング・シュトラール
1958年生まれ。経済学、政治学、コミュニケーション学を大学で学び、その後ジャーナリストとして活躍中。現在、雑誌『キャピタル』の編集を担当。2002年にヒトラーの資産をテーマとする著書を刊行。

畔上司
1951年長野県生まれ。東京大学経済学部卒。ドイツ文学・英米文学翻訳家。共著に『読んでおぼえるドイツ単語3000』(朝日出版社)、訳書にK・シュピンドラー『5000年前の男』(文藝春秋社)、B・シュティーケル編『ノーベル賞受賞者にきく子どものなぜ?なに?』(主婦の友社)、C・アレグザンダー『エンデュアランス号 シャクルトン南極探検の全記録』(ソニー・マガジンズ)、M・ドリューケ『海の漂泊民族バジャウ』、U・ブラーター『体のふしぎ事典』(草思社)他がある。