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立ち読みコーナー
途方に暮れて、人生論
保坂和志 著
 途方に暮れて、考える──あとがきにかえて

 すでにこの本を通読した人なら見当がついていると思うけれど、私はここまで決して順調にきたわけではない。
 子どもの頃はものすごく落ち着きがなく、落ち着きがないからといってハキハキしていたわけでもなかったので、大人から見たらかなり扱いにくい子どもで、小学校では怒られるのが日課のようなものだった。落ち着きがないから黙って静かに本を読むなどということはおよそ不可能で、将来自分が文章を書いて生きるなんて想像したことがなかった。……のだが、中学・高校と居心地の悪さを感じつづけ、その後も何をしたらいいのかわからず、自分が生きているそういう状態に忠実であろうとしたら小説家という仕事しかなかった、というような感じだろうか。
 だから小説を書くときもプロらしくすらすら書くなんていうことは絶対できず、いつもこの先をどう進めたらいいかと、戸惑いつつ、途方に暮れつつ書くような書き方しかできないし、そういう書き方しかしようとも思わない。もっと言ってしまえば、プロというのは経験を頼りに、ためらわずすらすら仕上げてしまうような人間のことではなく、戸惑い途方に暮れるようなやり方を自分から引き受けられる人間のことだとも思っている。
 と、こんなことばかり書くから、私のことを「理屈っぽい」と批評する人がいるけれど、私はむしろ「好き・嫌い」を判断の最初の基準におく感情的な人間だ。しかし、私の「好き・嫌い」の基準が世間一般とかなり違っているために、周囲の人たちとの接点を作り出すためにどうしても理屈が必要になってくる。子ども時代から、自分と周囲の溝を埋めるために私は一所懸命考えて、相手を理解しようとした(自分が正しいと思っている多数派の人は、相手を自分に従わせようとするだけで、相手のことを理解しようなどとは思わない)。
 そういうわけで、自分が考えたり感じたりすることが多数派の意見と同じだったことなどほとんどないから、多数派と意見が合わない人の苦労はかなりわかると思うし、エッセイを書くとき、私はいつもそういう人たちのことを考えている。

 今というのはつくづくおかしな時代だ。テレビをつけるとバラエティ番組ばっかりで、わいわい騒ぐのがコミュニケーションだとでも言いたげに、みんなでひたすら楽しそうに振る舞っている。書店に行けば新書を中心としたベストセラーがドーンと並べられていて、本の配置それ自体が「時間をかけてゆっくり考えていたりしたら時代から取り残されるぞ」という信号になっている。
 しかしこれらの現象は、時代が明るく楽しいことを語っているわけではなく、むしろ閉塞していることの証明でしかないだろう。社会のそういう表面的なことにつきあっていたらきっと自分自身の人生までが閉塞してしまう。生きるということは本当のところ、多数派のままではいられないということを痛感することで、要領のいい人たちから「ぐず」と言われるような遅さで考えつづけることでしか自分としての何かは実現させられない。拠り所となるのは、明るさや速さや確かさではなくて、戸惑い途方に暮れている状態から逃げないことなのだ。
 だから、この本には生きるために便利な結論はひとつも書かれていない。しかし安易に結論だけを求める気持ちがつまずきの因(もと)になるということは繰り返し書いている。生きることは考えることであり、考えることには結論なんかなくて、プロセスしかない。
 とにかく、今はおかしな時代なんだから生きにくいと感じない方がおかしい。生きにくいと感じている人の方が本当は人間として幸福なはずで、その人たちがへこんでしまわないように、私は自分に似たその人たちのために書いた。
(あとがきより)



保坂和志
一九五六年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。九〇年、『プレーンソング』でデビュー。九三年、『草の上の朝食』で野間文芸新人賞。九五年、『この人の閾』で芥川賞受賞。九七年、『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。他の作品に『猫に時間の流れる』『残響』『カンバセイション・ピース』など、エッセイに『世界を肯定する哲学』『言葉の外へ』など。