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 清く、心ゆたかに、美しく──姉妹四人の「女の半生」 長岡輝子の四姉妹 美しい年の重ね方
長岡輝子の四姉妹 美しい年の重ね方

長岡輝子の四姉妹 美しい年の重ね方
鈴木美代子著

ISBN 978-4-7942-1406-5
判型 四六判
頁数 344頁
定価 1,890円(本体1,800円)
長女:妙子100歳
五女:春子88歳
三女:輝子95歳
六女:陽子83歳

写真撮影 松美里瑛子 
長女・妙子

「まあ、おいしそう」と喜ぶ井上妙子。久しぶりのドイツ料理に自然と顔もほころんだ(鵠沼の自宅で)。

写真撮影 松美里瑛子
長女・妙子の章 私の神様は一番身近にいたの

目次より
三十四人の親族から贈られた百歳のお祝い
和食より洋食のほうが好き
長女として盛岡に生まれる
父・森擴という人
盛岡幼稚園の第一回卒業生
誰が一番いいものを見つけるのかな?
井上剣花坊の次男・鳳吉と結婚
父からの手紙をまとめた『よるのつる』
長谷川路可の絵のモデルに
四十二歳で来た鳳吉の召集令状
渡米後、太平洋戦争勃発
鳳吉、今度は戦場のラングーンへ
戦後は夫に守られて
一番身近にいた私の神様
百歳のいま、もっとも大切な宝もの

三女・輝子

「朝、目を覚ますと、ああ、今日も生きていたと思って、一日が始まるの」と笑う長岡輝子(大森の自宅で)。

写真撮影 松美里瑛子
三女・輝子の章 火の塊と太陽の光のような人の間で

目次より
菊池寛に叱られたのに菊池寛賞とは
矢野誠一の賛辞に心から喜ぶ
第五十回目のクリスマス・ページェント
成績の悪い子にご褒美をあげよう
築地小劇場の試験にパスしたものの
白山丸でフランスへ遊学
本格的な勉強を始めた矢先の父の死
金杉惇郎との再会とテアトル・コメディ
芝居一筋の金杉との結婚
テアトル・コメディの栄光と解散
篠原玄との出会いと再婚
文学座の主要なメンバーとなる
太陽の光のような玄の死
誰が何と言おうとやはり「えらい」

五女・春子

メニエール病にかかって耳が不自由になったが、「すべては今が一番よいときだと思う」と語る若林春子(国立の自宅で)。

写真撮影 松美里瑛子
五女・春子の章 喜びは掛け算で、悲しみは割り算で

目次より
いまが一番よいときだと思うから
心の中では、この絵は「ほんもの」
十五歳のとき祖母・姉・父を失う
女優としてテアトル・コメディの舞台に
ウィーンからの尾高尚忠と節子の手紙
三菱商事の若林卓弥と見合いして
ナチ占領下のパリ脱出の自伝を出版
嫁には特別厳しかったメメ
メメとの真剣勝負の日々
長女・万里子、次女・光子の誕生
戦時下のパリ、やさしかった人々
パリを脱出、ドイツのズコー城へ
ドイツからシベリア鉄道で中国へ
新京の社宅で馬賊に襲われる
喜びは掛け算で、悲しみは割り算で
メメ、若林一家を追って占領下の日本へ
料理教室とマロニエの会

六女・陽子 border=

「『長岡輝子さんではありませんか?』とよく間違われます」といって微笑む倉田陽子(世田谷の自宅で)。

写真撮影 松美里瑛子
六女・陽子の章 私を必要とする人のために生きる

目次より
長岡輝子さんではありませんか?
茶人だった義父・倉田耿介の審美眼
登校拒否の草分け
姉の節子が住んでいた渋沢さんゆかりの家
倉田高との運命の出会い
承諾するまでバラを贈り続けた高
家風の違いにもじっと耐えて
チェロと芋とどっちが大事だ!
娘の澄子をおぶってチェロの練習
空襲の東京から強羅へ疎開
高の死と野辺の送り
ぜひチェロをおやりなさい!
祖父の死と毎日コンクール入賞
パリに四年、ドイツに二年、中国に二年
おばあちゃんの生きがいはママだったんだね

長岡家家系図
長岡家家系図

妙子 輝子 春子 陽子
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長岡輝子の四姉妹 美しい年の重ね方

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父からの贈りもの

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長岡輝子 著


ふたりの夫からの贈りもの

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長岡輝子 著


老いてなお、こころ愉しく美しく

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長岡輝子 著


鈴木美代子

長岡輝子と著者(大森の長岡家で)。
著者 鈴木美代子
昭和九(一九三四)年、東京神田生まれ。立教大学英米文学科卒業。昭和三十五(一九六〇)年、文学座編集部に在籍中、NHK教育テレビに幼児向けの放送台本を執筆。結婚後、三男一女の子育てで十年あまり筆を絶ったが、長岡輝子のすすめにより、青美代子のペンネームでNHKラジオ「お話でてこい」に創作童話を書く。五十年近くにわたって師と仰ぐ長岡輝子と、長岡家に人々との親しい関係をつちかってきたからこそ、この本ができたといっても過言ではない。おもな著書に『神田っ子』『三つねたらひっこし』(太平出版社)、共著に『お話でてこい』(金の星社)などがある。昭和五十七年、離婚後は自宅で英語塾を開いて現在にいたる。