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なぜ中国共産党は「歴史認識」ができないのか   鳥居民
●これは北京に住む中国人が書いた

 この『中国がひた隠す毛沢東の真実』は、三十代の毛沢東が、江四こうせい省でゲリラ作戦の指揮をしていたときにはじまり、そのあと延安えんあんにおける十年、さらに政権を握ってからの十五年、そしてかれの治世の最後となる文化大革命の十年まで、そのときどきに毛沢東が望んだこと、かれがやったことを記述したいくつもの論評を中国語から日本語に訳し、編纂したものである。

 さて、この毛沢東に関する論評は、これまでに出版された毛沢東伝とはまったく異なる。これは、毛沢東の専制政治を憤りを込めて叙述したものだからである。

 たとえば著者はつぎのように述べる。「田舎でも都会でもいい、年配の人たちに聞くがいい。あなたがたのおじいさん、お父さんはどのようにして死んだかと。その半数はきっとこう答える。『じいさんは三年間も辛い日々を送ったあげくに死んだ。父さんは十年の大動乱で死んだ』と」(五七頁)。

 振り返ってみるなら、エドガー・スノーが延安で書いた『中国の赤い星』のなかで、毛沢東を「痩せて、リンカーンのような容貌の男」と記し、アグネス・スメドレーが『中国は抵抗する』を発表し、毛沢東を「駿馬らばのように頑強で、鋼鉄のような誇りと決意を持った男」と記述したのがはじまりで、毛沢東を賛美する評伝はそのあと数限りなく発表されてきた。それから三十五年のちの毛への賛辞をひとつ挙げよう。スノーは再び毛と会見した。見送りに出てきた毛が最後に、「私は破れ傘を手にした孤独な修道僧にすぎない」と語ったとスノーは紹介した。

 「孤独な修道僧」と謙虚に自己の生涯を振り返ってみせた毛の死からも、すでに三十年近くがたつ。伝記作家、スノー、スメドレーもすでになく、「孤独な修道僧」、「聖人」と請え、礼賛に終始した毛讃歌はいつか見ることができなくなっている。そもそも毛にしたところで、スノーに向かって、自分のことを「孤独な修道僧」と語ったのではなかった。はっきりと明言はしなかったが、言おうとしたことは、幾分か自噺を込めてのことと思えるが、「私は国の定め、党の掟はおろか、世の中の決まりをかえりみることのない無法者でした」ということだったのである(注)

 そして現在、毛を無法者だと述べる伝記の刊行は少しも珍しいことではない。

 では、この『中国がひた隠す手沢東の真実』が、これまでに出版された毛沢東伝とまったく異なると述べたのは、なぜなのか。

 現在、北京に住んでいる中国人が書いた本だからである。東京やロンドンにいる外国人が書いたものではない。

 いうまでもなく、中国国内で毛沢東を批判する文章を発表することはできない。毛沢東著作編緝出版委員会弁公室の後身、中共中国文献研究室がやっている仕事は、毛沢東の文章、たとえば「井崗山せいこうざんの闘争」考ざんのなかで、井崗山の産物として記述している「茶油」は「茶と油」ではなかった、「椿油」の「茶油」だった、といったたぐいのことである。

 かつて毛沢東を批判できた一時期はたしかにあった。毛の死のあと、かれが定めた後継者、そしてかれが信頼していた部下たちを牢屋にぶち込むか、追放するかしてしまったあとのことだ。

 党総書記となった胡耀邦は率先して、文革中に殺された人びと、投獄された人たちの名誉回復を行なった。さらに一九五七年に右派分子の烙印を押され、賤民の扱いを受けていた人たち、その家族、親族、一千万人を解放した。よりいっそう悲惨な運命に苦しんでいた旧地主、旧富農とかれらの子供たちの「地主、富農」の烙印も取り消した。

 このような開放、民主化の過程のなかで、文革の総指揮官であった毛沢東、反右派運動を推進した毛沢東、階級闘争を鼓吹した毛沢東が批判、非難されることになった。だが、トウ小平をはじめ党の大部分の幹部たちは、毛沢東に対する批判をいい加減なところで打ち切ろうとした。



注:毛沢東がエドガー・スノーに向かって語った言葉は「和尚帯傘」だった。通訳は知らなかったのであろう。「和尚帯傘、無法無天」とつづくのだが、「無法無天」は普通は略して語らない。一昔前には常套語であり、「無法」は発音が同じ「無髪」に通じ、和尚は髪がないとなり、傘に遮られて天がないから、「無天」となる。褒めるのとは無縁の成句だ。無理無体だ、非道だ、横暴きわまると非難するときに使う。

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