www.soshisha.com
栃木リンチ殺人事件の真実――とんでもない控訴審判決を検証する

寄稿 やっと開いた国賠の扉を再び閉ざすのか

黒木昭雄(ジャーナリスト)

「栃木県警の捜査怠慢が息子を死に追いやった」として遺族が県などに賠償を求めた訴訟の控訴審判決が3月28日、東京高裁であった。

 原告側控訴人は被害者須藤正和の父、須藤光男と正和の姉のふたり。被告側控訴人は栃木県警を管轄する栃木県である。光男と姉は「主犯格の両親には監督責任がない」とした宇都宮地裁判決を不服として、また栃木県は「栃木県警の捜査怠慢と殺害には因果関係がある」とした宇都宮地裁判決を不服としてそれぞれ控訴していた。

 これに対して東京高裁判事、富越和厚が下した判決は、原告側の控訴を棄却するに留まらず、「警察権の行使の違法性については、栃木県警警察官に過失があったと認めることはできるものの、当該過失と正和の死亡を回避できなかったとの相当因果関係を認めるには足りず、正和の死亡を回避し得た可能性を侵害された限度において損害を認めることができる」としたうえで、仮に警察権を行使していたとしても正和の火傷は身体の80パーセントにおよび既に致命的状況にあったのだから正和の生存の可能性は3割程度だったとして一審判決を破棄し、栃木県の賠償額を約9600万円から9分の1の1100万円に減額する、というものだ。

 人に誇れるものはないが、本件事件を執筆するにあたり、私は元警察官としての実務経験に加え、長期にわたる徹底した取材で得た証言や資料を基にこれが真実だと言えるほどの真相に迫ることができたと自負している。

 その私が言うのだから間違いない。裁判所は何かにとりつかれたように偏った判断を示したとしか言いようがないのだ。

■被害者は自力では逃げられない状況にあった

 事件概要は拙著『栃木リンチ殺人事件』に詳しいが、ひと言でいえば本件事件は桶川ストーカー事件で、「警察は事件にならなければ動かない」と刑事が吐いた、あの名言以上の体たらくを見せつけるものだった。

 栃木県警は、警察法で定める「個人の生命、身体及び財産の保護」という警察目的を履行せず、両親からの度重なる捜査依頼を無視し正和が殺害されるまでの約2か月間、何ひとつとして動こうとせず、しかも、事件に加担した高校生が警視庁に自首したことで事件が明らかになると、すかさず「暴走族同士のトラブル」などというありもしないリーク情報をマスコミに流してミスリードを誘い、あまつさえ軟禁状態に置かれていた約2か月間、「正和には逃げ出すチャンスがあった」などと主張したのである。

 人には外見からはうかがい知ることのできない内面がある。子供の頃を知る正和の友人は「非常におとなしい性格の子だった」と一様に言う。「非常におとなしい」という言葉と「拒否できない性格」が仮に同じ意味ならば、そもそも正和は初めから犯人らの要求を拒むことができなかったということになり、当初から自力では逃げ出せない状況にあったともいえる。

 それを裏付ける一文がある。拙著の中に刻みこんだ衝撃的な描写だ。あまりの惨たらしさに目を背けた読者も多いと聞くが、あえて今一度書く。熱湯や火炎だけではない。正和は、犯人らの精液が入ったオレンジジュースを無理矢理飲まされるという耐え難い陵辱まで受けていたのだ。もしそれを飲まなければたちまち激烈な暴力が繰り返されることを正和は充分に理解していた。だから耐え難き要求をも呑まざるを得なかったのである。これでも裁判所は正和が逃げられたはずだと言うのか。

 あまりの衝撃の強さと陵辱場面のリアルさに、私自身何度もその部分を消し去ろうとした。だが鬼になってそれを残した。それを削り取らなかったのはロープを使わなくても人は拘束できるという現実と事件のすべてをありのままに書き残さなくてはいけないと考えたからだ。

 一方、東京高裁の判事は正和の火傷は身体の80パーセントに及び既に致命的状況にあったのだから警察が捜査を開始しても助からなかったと判決の理由に掲げているが、それはあまりにも現実を無視した解釈だといわざるを得ない。もし意識的に歪曲したのでないなら、裁判官はそろいもそろって「脳味噌が足りない」という以外に言葉もない。

 遺体検案書に書かれた80パーセントもの火傷は2か月間にも及ぶ凄惨なリンチを受けて日を追うごとに重ねられた火傷であることは誰の目にも明らかなのだ。それゆえに両親は一日も早い救出を望んでいたのである。それなのに「……助からなかった」とはなにごとか。

■少年法で守られた犯人、保護者の責任なしとされた親

 次に、控訴が棄却された主犯格の男の両親に対する監督責任についてである。

 正直に言って、私は、裁判所が「両親への損害賠償請求は理由がない」と判断することを予測していた。少年といえどもまもなく20歳を迎える息子への監督は事実上不可能に近く、両親にはもはや責任がないとする考えが一般的だと思うからだ。

 これについて光男に聞いたことがある。

「……それじゃなぜ、犯人は極刑(死刑)にならないんだい。少年だから保護されるっていうなら、親が責任をとるのがあたりまえじゃないか」

 両親の提訴は、獣でもしないことを平然とやってのけたあげく、いざ逮捕されてもシャーシャーと少年法の砦の中に逃げ込むことを許す法律と、加害行為の程度を度外視した甘き裁きに対する抗議の表れだったと、そのとき思った。正和の両親は犯人らが行った行為に対する適正な処罰を声高に求めていただけなのだ。

■表面上は「公正な審理」を印象づける判決文

 率直にいって判決文に盛り込まれた検討方法にはおおいに疑問が残る。たとえば富越和厚裁判長は第2の争点(第1の争点は主犯両親の監督義務違犯)である「控訴人栃木県の警察官の対応と国家賠償法1条1項の責任の有無」について検討するうえで、警察官の責務は「個人の生命身体及び財産の保護」(警察法2条1項・警察の目的)だとしながらもすかさず同条2項の但し書きを持ち出し「警察の活動は厳格にこの責務の範囲に限られる」と正和の捜査に限界があったとの印象を与えた。

 警察法2条1項は一般論であるし、そもそも本件事件は同条2項で示す警察権の限界とはまったく関係がないのだ。その上で裁判所は、国家賠償法1条1項との関係で違法と評価されるのは、「通常なすべき措置を怠った場合であり」と具体例を示し・〜・の細目に沿って「正和に対する加害行為」について検討を始め、警察には責任がないとしたのである。

 これらの検証手順は警察官の不作為を検討する上で重要な筋道であると同時に、判決を出すに当たって細大漏らさずにしかも公平に審理したことを印象付けるものである。だが、思い返して欲しい。殺害された正和の両親は自らが集めた資料を警察に提出し正和がどんな状況にあるのかを調べて欲しいと願い出ていたのである。繰り返すが両親ははじめから犯人の逮捕など要求していないのだ。それなのに裁判所は強制力の行使には幾つもの要件があるなどと筋違いの規定を持ち出し、逮捕の要件を満たしていなかったから警察には責任がないというのである。最後まで何もしなかった栃木県警の不作為を検討せず、いったい何のための審理だといえるのか。これこそが偏った判決の証ではないか。

■裁判所があえて触れていない部分

 たとえば、正和の母洋子が正和の捜索願を提出した10月18日のことである。

 その日、洋子は正和が勤めていた日産自動車の上司で「警察OB」である男性に付き添われて、初めて栃木県警石橋警察署を訪れた。

 裁判所はこう言う。この段階における警察の正和に対する認識は、ズル休みを続けて同僚らにサラ金などから借金をさせ、それを借り受ける不届き者であり、正和自身が脅迫や暴行の被害者として認知されていたというわけではない、だから、正和の救出に動かなかったからといって直ちに警察に捜査上の懈怠があったとは言えない──。

 だが、これこそが判決を書く上での苦し紛れの口上なのだ。

 確かにこのときは、正和の所在がつかめないという事実はあったものの、軟禁されているといえるだけの具体性はまだなかった。事実この日、石橋警察署を訪れた洋子は正和の「家出人捜索願」を提出している。

 これについて裁判所は、捜索願が出されたからといって積極的に捜索しないのが普通だとする警察側の無茶苦茶な言い分で説明を補完し、捜索願を出しても警察は動かなかったとする原告側の主張に蓋をした。

 だが、仮に捜索願に対する警察の考え方を鵜呑みにしたとしても、それをもって警察が動かなかったことを正当化することはできない。

 たとえば、この時点で新入社員の正和が借り集めた金はすでに百数十万円に上っていたのだ。新入社員の年収を思えば、それが返済不可能に近い金額であるとすぐに察しがつく。しかも友人や同僚を対象とした寸借詐欺は短期間に被害が拡大することは警察の常識であり、返済ができない程の借金を重ねるには相当の理由があると気づく。すなわち、バックに恐喝グループの存在を疑うのが普通の警察官なのだ。

 それまでまじめに暮らしてきた正和が突然無断欠勤を繰り返し、しかも時折連絡はつくものの居場所が分からないというのだから、確たる情報がなくともなおさら正和が軟禁されているのではないかと疑ってかかるのが相当である。仮に、そこに考えが及ばなかったとするなら、それだけで警察官として失格なのだ、と私は強く言いたい。

 まさに警察権限の不行使が正和殺害の原因だと争われる裁判で、表から見えないこうした部分に指摘が加えられないこと自体、裁判所が公平に審理したとはいえない。もし、このとき正和を詐欺の容疑者として捜査していれば間違いなく一味の存在が明らかになり、事態が変わったことは言うまでもなく、ことの重大性と以後に続く警察の職権不行使を考え合わせれば、そもそもこうした警察官の体たらくが事件の拡大を招いたともいえるのである。

 警察官が扱う事件の多くは初めは大概が些細な暴行や窃盗、詐欺、横領、恐喝といったものだ。この種の事件は小さな芽のうちに摘み取るから重大事件にならないのである。警察活動には任意手段と強制手段があるが、必ずしも逮捕することだけが捜査ではない。そうなると、「証拠がないから逮捕できなかった」などという理屈は、捜査を怠ったことの言い訳にはならない。

 10月18日、この日が正和が殺される約1か月半前だったことを思うと、原告がやり場のない怒りに打ち震えるのは当然であり、あまりの切なさに憤るのはもっともではないだろうか。このときの正和は、死に至るほどのダメージをまだ受けていなかったのである。

■警察はなぜ動かなかったのか

 そして解けないのは、洋子が石橋署に捜索願を出したその場に、栃木県警の上級幹部から日産に天下りした男性が同席していながら、なぜ石橋署員は動かなかったのかという疑問だ。

 そのあたりについては拙著で詳細に指摘したが、そもそも企業が警察経験者を再雇用するのは、警察との関係をつなぐパイプが欲しいからであって、警察もそれを十分に承知しているからこそ元上級幹部を大企業に送り込むのである。そう考えると、栃木県警の警察署長まで経験した男性が同席したのに、なぜ警察が動かなかったのか、という疑問は実はきわめて重要なポイントなのである。

 これは訴外なので深くは書かないが、仮に日産自動車に事件化を望まないという意思があれば、警察が動かなかった理由がある意味見えてくる。

■あらかじめ用意された判決?

 さて、判決における裁判所の判断のおかしさを指摘するとキリがないが、それから4日が経過した10月22日以後は、それこそ「知らなかった」という言葉では済まされない捜査放置が続いた。「証拠がない」として突っ放される中、必死の思いで情報をかき集めた光男は「息子が軟禁されて暴力を受けているかもしれない」として何度も何度も捜査を願い出たのだ。だが警察官はそれでも取り合わず「息子(正和)はクスリでもやってるんじゃないか……」などと言い放ち、およそ警察官としてあるまじき暴言の数々を吐くに留まらず、「それじゃクスリの線で捜査してください」と懇願する光男の要請さえも一蹴したのだ。これが捜査放置でなくていったい何だというのか。

 ところが裁判所は、これだけの危機的な状況がありながら「警察の認識としては、暴力団の関与について可能性は低く、A(主犯)を含む不良集団との交友の可能性が大きいと判断した時期であり……」として「栃木県警警察官において、正和が犯罪行為の被害者となっていることを容易に認識し得るまでの情報があったとはいえない」とわけのわからない理由を述べているのだ。

 裁判所が憶測や推測で判決を出せないのは当然のことである。確たる物的証拠がない場合にはそれが真実であると信ずるに足るだけの状況証拠を積み上げ、多方面にわたって合理的に審理を尽くし、その上で判決を決するのが普通だからだ。だからこそ宇都宮地裁は一審判決において、あまりにも酷すぎる扱いを受けた原告の主張を汲み取って審理を重ね栃木県警警察官の不作為を認めたのである。

 それなのに東京高裁は被害者を救出できた可能性がなぜ「3割程度」なのかの根拠も示さないまま一審判決を覆したのである。これではまるで、あらかじめ原告敗訴の判決が用意されていたのと同じではないだろうか。この判決を素直に飲み込める国民は誰一人としていないのである。

■国家賠償裁判は原告敗訴の歴史

 国賠の歴史は原告敗訴の歴史だといっても過言ではない。

「国家無答責」の名のもとに延々と築き上げられた国賠の権威は多くの原告に苦杯を嘗めさせてきた。

 記憶に新しいのは1999年10月、埼玉件桶川市の駅前で白昼、元交際相手の男の兄に女子大生が殺された「桶川ストーカー事件」である。この事件は、捜査を担当していた埼玉県警上尾署が、女子大生のストーカー行為を捜査せず、提出された「告訴」を「被害届」に改ざんし、告訴の受理さえもなかったように細工するなど、責任逃れのさまざまな工作をしたというものだ。

 ところが、同年12月、埼玉県を相手取った国賠が起こされると、埼玉県警は「警察には責任がない」と、それまでの謝罪をくつがえし、06年8月30日には、最高裁が原告の上告を棄却し、捜査の怠慢と殺害の因果関係を否定した二審高裁判決が確定したのである。

 いずれにしても警察を相手に戦う国賠は政治的影響を受けやすく、上級審の判断に裁判官個人が逆らえないなどの理由もあって戦後60年を過ぎた今日においても旧態依然のままなのである。

 そうした中、昨年1月11日、2002年3月に兵庫県神戸西区で発生した「神戸大学院生リンチ殺人事件」について「警察官の職務上の不作為には損害賠償責任がある」との判断を最高裁が示し兵庫県の上告を棄却した。事件の詳細については昨年9月に上梓した『神戸大学院生リンチ殺人事件』に詳しく書いたが、この事件の根幹部分を検証すると随所に本件事件との共通点が見えてくる。

 たとえば、被害者が監禁されていた時間に長短の違いがあるものの、警察官には被害者が監禁あるいは軟禁されていることを十分に知りえる状態にあったこと。そして命の危険が差し迫っていることを十分に予見できたことである。それらを考え合わせるとなおさら本件事件の高裁判決に納得できないのだ。

■判決はなぜ「予見性」に触れていないのか

 そして最後にひとつだけ付け加えておきたい。通常、警察官の責任を追及する上で重要なのが「予見性」だといわれている。

 その時、警察官において被害者が殺害されることを予見できたか否かというものだが、過去の国賠で原告が敗れる理由の多くが実はこの予見可能性なのだ。ところが不思議なことに、この栃木リンチ殺人における判決にはこうした「予見」の可否について触れられておらず、遺体の損傷状況だけをもって警察官が仮に捜査を開始していたとしても被害者は助からなかったなどと、具体的な説得力をもたない仮説を前提に判決を下しているのだ。これはおおいに不思議なことである。穿って言うなら裁判官自身も正和の死が予見できたと判断されたからこそ予見性についてあえて判決に盛り込まなかったのではないだろうか。

「神戸大学院生リンチ殺人事件」における最高裁の判断は、多発する凶悪事件に対峙する警察現場への期待の表れであり、国民の利益を一義的に守れるのは唯一現場の警察官だと裁判所が認めた証だと私は見ている。その意味からいえば宇都宮地裁が下した一審判決と何ひとつ違いはないのだ。

 戦後60年の時を過ぎて、やっとの思いで開いた国賠の扉が再び固く閉ざされてはならない。若者の尊い命が奪われたこの「栃木リンチ殺人事件」において正当な判断が下されるのは当然のことなのである。最高裁が良識ある判断を示すものと私は信じている。

(文中敬称略)

黒木昭雄(くろき・あきお):ジャーナリスト。元警視庁巡査部長。在職中に警視総監賞を23回受賞している。警察内部に巣喰う問題を徹底して追及している。著書『警察はなぜ堕落したのか』で警察の構造的問題を指弾し、『栃木リンチ殺人事件』で栃木県警が「明確な意志を持って動かなかった」事実を検証、『神戸大学院生リンチ殺人事件』(以上いずれも草思社刊)では国賠裁判で警察の非が初めて全面的に認められたこの事件の全容を描いている。近刊には初の警察小説『臨界点』(講談社刊)がある。
ホームページ:http://www.akuroki.jp/