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栃木リンチ殺人事件の真実――とんでもない控訴審判決を検証する

寄稿 控訴審判決の問題点

中川勘太(弁護士)

 本件判決は、警察の違法な不作為と被害者の死亡との因果関係を否定し、「生存可能利益」という概念を持ち込み、3割程度の生存可能性の範囲に限って賠償額を認めている。この点が本件判決の最大の疑問点であることは、衆目の一致するところであろう。

 論者によっては、この判断について、「証拠上、捜査の怠慢と被害者の死亡との因果関係を認めることはできなかったということであるから、本来は賠償額はゼロである。しかし、違法捜査を断罪し、遺族を救済するために、裁判所として知恵を絞り、生存可能性理論を持ち込み、一部のみでも賠償責任を認めたものと理解する。その意味では傾聴に値する判断である。」と好意的に評価する向きもあろう。

 しかし、そのような評価は正当であろうか。私には、本件の判決は、証拠と法律に基づいて詰め切った判断をすることなく、単に落としどころを決めて理由を付けただけの判断としか思えない。

 私がそのように考える理由を、順を追って説明していきたい。

■損害賠償を請求するにあたって証明すべき事柄(前提)

 まず、前提として、裁判で損害賠償請求が認められるには、どのような事柄の証明が求められるのかについて説明する。

 およそ、加害者が被害者を死亡させた場合において、損害賠償を請求するために証明すべき事柄は何か。これは、(1)加害者の行為の特定、(2)加害者の過失又は違法性、(3)加害者の行為と被害者の損害との因果関係である。

 交通事故でいうと、(1)加害者が被害者に車を衝突させたこと、(2)その衝突について、加害者の不注意が認められること、(3)加害者が車を衝突させたことによって、被害者が死亡したこと、の3つということになる。この3つが認められなければならないということは、法律を学んだことがなくとも、容易に想像できるであろう。

 なお、現在の裁判では、この3つを証拠に基づいて証明する責任(立証責任)は、遺族(原告)の側にある。

 では、警察官が捜査を怠り、何もしなかったために被害者を死亡させた場合はどうか。「何もしなかった」ことを、法律上は「不作為」という。

 そもそも、何もしなかったことを「加害行為」といえるのかという素朴な疑問がある。しかし、警察官は、犯罪を防止し、個人の生命等を保護するために、予算や法律上の権限を与えられている。

 警察官が行うべき捜査を行わなかったために被害者が死亡したような場合には、警察に(正確には、警察を管轄する地方公共団体に)損害賠償責任が認められなければならない。そのような場合に損害賠償を請求するにあたり、遺族が証明しなければならないことは、先ほどの3つと原理的には同じである。

 ただ、「不作為」なので、方向性が少し変わる。すなわち、(1)警察官が行うべきであった捜査の内容の特定(加害者の行為の特定)、(2)警察は、本来行うべきであった捜査を不注意で怠ったこと(過失又は違法性)、(3)警察官が不注意で捜査を怠ったことによって、被害者が死亡したこと(損害及び因果関係)の3つの証明が必要となる。これらは、仮定の世界の話となる。警察官は、現実には捜査を行っていないのだから、仮定の世界の議論として、「本来行われるべき捜査」はどのようなものかを特定しなければならない。

 次に、「本来行われるべき捜査」は、関連法令や警察実務からみて当然に行われるべきものであったことを証明しなければならない。さらに、「本来行われるべき捜査」を行っていれば被害者は助かったことを証明しなければならない。

 警察の捜査手法や捜査資料は公表されていないにもかかわらず、これらの事項を全て遺族の側で調査しなければならないのである。現在の裁判実務において、警察を訴える場合のハードルは高い。

(なお、警察官の不作為を原因として損害賠償を求める場合、「国家賠償法」に基づく請求となり、通常の損害賠償とは異なる部分があるが、この点は本稿の論述の直接の対象ではないので、説明を割愛する)

■本件判決の概観と問題点

 それでは、本件判決で、上記の(1)から(3)がどの程度まで認められたのかを整理しよう。  まず、(1)の「警察官が行うべきであった捜査」は何か。常識的には、遺族が被害者の家出人捜索願を出しており、その後何度も警察に足を運んで被害者を捜すよう依頼しているのであるから、警察は、早い段階で被害者の行方の探索に着手すべきだったと思える。

 しかし、本件の判決で認められた「警察が行うべきであった捜査」は、ただ一点である。それは、11月25日に、警察が遺族から、銀行の支店のビデオカメラに負傷した被害者が写っているという情報提供を受けた際に、その画像を取り寄せるべきであったということである。

 今回の事件で、「警察が行うべきであった捜査」がこの一点に尽きるのかは、疑問の余地がある。自らの息子の行方を案じ、何度も警察に足を運んだ遺族の心情を考えると、俄に納得し難い。

 ただ、この点については、生の証拠に基づく事実認定の問題であり、判決文からだけでは当否を評価できないので、コメントを差し控えざるを得ない。

 次に、(2)「警察が本来行うべきであった捜査を不注意で怠ったこと」についてはどうか。つまり、画像の取り寄せを怠ったことについて、警察官の過失や違法性は認められるか。

 この点については、さすがに本件の判決でも、警察の過失や違法性を認めている。画像の取り寄せを怠ったのは、遺族から電話を受けた警察官が「電話があったこと自体を失念し、上司や他の警察官に報告しなかった」ためだというのであるから、重大な不注意であり、過失や違法性が認められることは明らかである。

 そして、(3)の「警察官が不注意で捜査を怠ったことによって、被害者が死亡したこと(因果関係)」の問題となる。警察が画像を取り寄せていれば、被害者を発見できていたかという判断である。本件判決は、因果関係を否定した。その理由を、以下のとおり全文引用する。

 「この段階でも、火傷の時期、原因、程度は不明であり、被害者となるべき正和の協力も得られない状況であるから、直ちに傷害被疑事件として逮捕状を請求し得たということはできないし、正和から頻繁に無心の連絡があり、正和自身が自己の意思で加害者らに加わっている外形の下で監禁罪での強制捜査を行うことも期待し得なかったといえる」(ここまでを「ア」とする)

 「から、この段階で正和の生命への切迫した危険を予想しての緊急、広範かつ集中的な捜査の必要性を認識し得たということはできないが、正和の所在を確認して、職務質問をするなどの強制捜査によらない方法によって正和の負傷の程度を確認し、その身柄を保護することは検討し得たものといえる。」(ここまでを「イ」とする)

 「しかし、相当因果関係を認めるに足る蓋然性の有無という観点からみると、加害者ら及び正和は、車を使用するなどして居所を転々としており、加害者らが正和に対する家出人捜索願が提出されていることを認識していたことなども考慮すると、上記のような捜査手順のもとで、正和が殺害された12月2日又は殺害されない場合において重度の火傷のために死亡したとみられる同月3日までの間に、正和を発見し、その身柄を確保することによって正和の殺害を阻止し得たと高度の蓋然性をもって認めるには足りない。」(ここまでを「ウ」とする)

 このアからウまでの箇所は、本件判決の「肝」の部分である。この箇所で因果関係を否定し、原審判決を覆したのである。

 しかし、そのような肝の部分であるにしては、分かりづらいし、常識的にみて腑に落ちない。

まず、アの箇所では、本件について逮捕状の請求や強制捜査ができなかったこと、要するに令状が取れなかったであろうことを言っている。しかし、本件で問題となっているのは、令状を取って強制捜査すべきだったということではない。被害者を発見して保護すべきだったということである。

 本件では、強制捜査令状があったところで、被害者を発見、保護できるわけではない。被害者がどこにいるかを探さなければ、令状があったところでどうしようもない。他方、被害者を発見できれば、令状があろうがなかろうが、直ちに被害者を保護できた。警察官職務執行法は、負傷者等で適当な保護者を伴わず、応急の救護を要すると認められる者を「保護しなければならない」と定めており(3条)、その場合、他人の土地、建物又は船車に立ち入ることができると定めている(6条)。本件では、被害者は負傷しており、加害者らが「適当な保護者」とはいえないことは明らかであったから、警察は、被害者を発見すれば、直ちに保護できたし、保護しなければならなかった。仮に、被害者が他人の土地や車の中に連れ込まれていたとしても、そこに立ち入ることができたのである。わざわざ令状を取る必要などなかった。

 この判決がアの箇所で令状の取得について論じているのは、因果関係を否定する根拠としては少し当を得ない。

 次に、イの箇所では、強制捜査が期待できない状態であった「から」、正和の生命への切迫した危険を予想しての捜査の必要性を認識できなかったという。ここも理解し難い部分である。

 通常、強制捜査は、被害者の切迫した危険を予想した結果として行われるものである。強制捜査が行われた結果として、被害者の切迫した危険を予想するものではない。したがって、強制捜査ができなかった「から」、被害者の切迫した危険を予想しての捜査の必要性を認識できなかったとはいえない。理由付けとして論理的とは言い難い。

 本判決は、これに続けて、「正和の所在を確認して、職務質問をするなどの強制捜査によらない方法によって正和の負傷の程度を確認し、その身柄を保護することは検討し得た」という。しかし、「検討し得た」どころの話ではないであろう。警察は、問題の画像を取り寄せていれば、被害者が負傷していることが確認できたのである。それまでに警察に寄せられた遺族からの訴えや、被害者が引き出していた金額の大きさを考えれば、被害者が加害者らに脅され、暴行を加えられて、金を巻き上げられていると考えるのが常識であり、直ちに被害者の探索に走るべきである。「検討」している場合ではあるまい。

 強制捜査ができないからといって、被害者の探索ができない理由はない。例えば、加害者らの立ち寄り先に張り込み、あるいは車両の配備を手配することに令状はいらない。

 それでは、警察が本腰をいれて被害者の探索を行っていれば、被害者を発見できたのであろうか。これが、上記ウの箇所である。

 本判決がいうには、加害者らが「車を使用するなどして居所を転々としており、正和に対する家出人捜索願が提出されていることを認識していた」から、発見できたことを認めるに足りる高度の蓋然性はないと認定している。しかし、そのような重大な認定をした理由としては、詰めが甘く、説得的ではない。

 加害者らが車に乗って居所を転々としていれば、当然ながら車両の配備にはかかりやすい。また、加害者らは、家出人捜索願の提出を認識しながらも、特に用心もせず、親元に立ち寄ったり、交通事故を起こしたり、さらには、被害者から親に電話させて金を無心させたりと、脇の甘い行動を繰り返している。現在の日本の警察力は、このような脇の甘い加害者らの行方を捕捉できないほど低レベルではないであろう。少なくとも、加害者らが「居所を転々としており、正和に対する家出人捜索願が提出されていることを認識していた」から、発見が難しかったというのは、説得的ではあるまい。

 以上のとおりであり、上記アからウの箇所は、本判決の肝であるにもかかわらず、説得力が不足している。この理由付けでは、判決を読んだ者を納得させることは不可能であろう。いわんや遺族を納得させることはできまい。

■「3割の『生存可能利益』の侵害」について

 さて、本判決は、警察の怠慢と被害者の死亡との因果関係を否定したうえで、3割程度は被害者の死亡を阻止できた可能性はあるとして、3割の「生存可能利益」の侵害を認めた。まことにユニークな考え方であり、唐突な印象を免れない。

 本件判決も、余りに唐突だと考えたのか、このような「生存可能利益」を持ち込んだことについて、なお書きで異例の弁解を述べている。すなわち、「なお、ある過失がなければ有意の割合による延命可能性がある場合の延命可能利益の侵害による損害は、医療過誤に伴う不法行為においては論じられているところであり、過失が認められるが、この過失と生命といった重大な法益侵害との間に相当因果関係が認められないものの、有意な割合での結果回避の可能性(生存可能利益)が認められる場合には、同様の取扱を否定すべき理由はない」(ここまでを「エ」とする)という。

 しかし、「同様の取扱を否定すべき理由」はある。本来、因果関係とは、ある被害が発生した場合に、その被害の発生は加害者の行為(作為、不作為)によるものか否かという問題である。従って、論理的に、因果関係は、「あるかないか」であり、「オールオアナッシング」の認定が要求されるものである。中途半端に「3割はある」といったものではない。  例外的に、医療過誤の場合に「生存可能利益」という概念が用いられるのは、医療行為の特殊性によるものである。医療行為は、病気や怪我を負った患者に施されるものであるから、手を尽くしても助けられたかどうか分からない場合も往々にして見受けられる。そもそも、人体や病気のメカニズムには分かっていない部分が多く、そこにオールオアナッシングの認定を持ち込むのは無理がある。そこで、「生存可能利益」という概念を持ち込み、適切な医療行為を行っていた場合の患者の生存可能性をパーセンテージで認定し、その限度で損害賠償責任を認めるという判決が定着しているのである。

 そして、そのような判決が書かれる場合でも、裁判所が勝手にパーセンテージを認定することはない。医療過誤訴訟では、通常、専門医の意見書や鑑定書が提出されている。その中で、統計学的な資料や、医師の経験則から、およそ何パーセントの可能性でその患者を助けることができたかが検討されている。裁判所は、そのような専門医の意見を参考に、生存可能利益のパーセンテージを認定している。

 そのような「生存可能利益」を医療過誤以外の事件に持ち込めばどうなるか。結論は自明である。判決結果が、裁判官の主観的な落としどころに帰着することになる。因果関係の判断は、オールオアナッシングであるからこそ、厳しく、慎重な認定が必要になるが、適当な割合を裁判官が主観的に認定して判決を書くことができれば、そのような困難を回避できる。その結果、判決は証拠にも論理にも基づかないものとなり、説得力を失う。

 例えば、本件判決では、被害者の生存可能性が「3割」とされているが、何故2割でもなく、4割でもないのかについて、論理的な説明は何人にも(裁判官自身にも)できないであろう。単に、主観的な「落としどころ」としか言いようがない。

■本件判決が出された理由の推察

 本件判決は、因果関係を否定した点は、理由が不足しており、説得力に乏しい。また、生存可能利益を持ち込んだ点も、如何にも唐突であり、無理がある。

 では、何故そのような説得力の乏しい、無理のある判決が出されたのか。高等裁判所は、経験豊富な裁判官の集まりである。本件判決を作成している際に、因果関係を否定する部分(上記ア〜ウ)が説得力に乏しいことも、生存可能利益を持ち込んだ部分(上記エ)が余りに唐突であることも重々承知していたであろう。

 そこで推察するに、この事件を審理していく過程で、裁判官は、因果関係の判断に迷いを持ち続けていたのではないか。本件の証拠関係から、捜査をしていれば被害者を救うことができたという確信を持つには至らなかったのであろう。しかし、遺族を完全に敗訴させてもやむを得ない事案であるとは到底言えないため、双方の心証の間で揺れたのではないか。最終的には、因果関係の有無を認定しきることを回避することとし、判決文ではとにかく因果関係を否定する理由を付け、他方で生存可能利益という概念を持ち込むことで、落としどころを見出そうとしたものと思われる。そこで、その方向で判決を書いてはみたが、因果関係を認定しきらずに結論を出すことにもともと無理があるので、どう工夫しても説得的なものにはならず、異例の弁解まで付ける必要まで出てきたことは想像に難くない。

 そのように推察すると、本件の裁判官は、誠実に悩み抜いたと思われ、部外者が大上段から非難するのはためらわれる部分もある。

 しかし、民事事件における高等裁判所の判決が持つ多大な影響力を考えれば、このような判断を無批判に受け入れるわけにはいかないであろう。

 警察の捜査の不作為が問題となる事例では、「警察が適切な捜査をしていれば被害者を救うことができたか」という因果関係の有無が争点となることが多い。そのような事案で、本件判決が踏襲されることとなれば、因果関係を精密に認定することなく、裁判官の主観で何割かの生存可能利益を認定する判決が相次ぐこととなろう。前述のとおり、不作為による因果関係は、期待された作為があれば結果の発生を防止できたかという仮定の世界の検討を行わなければならないのであるから、裁判所の判断は困難を極める。そのような困難を回避するために、生存可能利益という概念を持ち込んで「落としどころ」で決着させるような判決が一般化すれば、遺族も国民も納得できない結果となろう。

■期待される方向性

 そもそも、不作為の事案における因果関係は、仮定の世界において「期待された捜査が行われていれば、被害者の死亡を防ぐことができた。」という事柄を、遺族の側で立証しなければならないから、その認定が困難を極めるのである。そのような事柄を遺族が100%証明することは原理的に不可能である。ましてや、警察が相手となるような事件では、捜査方法に関する証拠は警察側が全て握っており、遺族に有利な証拠を警察が自発的に提出することは期待できない。

 そのような実態に照らせば、因果関係の立証責任を全面的に遺族に課すことが果たして適切かということが再検討されなければならない。例えば、警察が容易に行いうる捜査を重大な過失によって行わなかったような場合には、因果関係の不存在の証明責任を警察側に課すといった考え方を取ることも不可能ではないように思われる。

 本件に即していうと、警察は、画像の取り寄せという極めて容易に行いうる捜査を重大な過失によって行わなかったものであるから、仮に画像を取り寄せて被害者が傷害を負っていることを認識し、その認識を前提とした捜査を行っていたとしても、被害者を救うことができなかったということを立証しなければならず、そのような立証ができなければ因果関係が認められるという考え方である(「立証責任の転換」という)。

 そのような考え方を取れば、警察は、被害者を救うことができなかったことを証明しなければ責任を負うことになるので、自ら積極的に証拠を提出する必要が出てくることになる。遺族の側は、警察が提出した証拠を検討し、因果関係が存在したという反論を精緻に行うことが可能となる。その結果、因果関係の存否に関する裁判所の判断は容易になり、生存可能利益という概念を持ち込むような必要性は少なくなるであろう。

 このような考え方はあくまで机上の仮説の1つであるが、少なくとも、因果関係を否定して生存可能利益を持ち込んで一部のみの賠償責任を認めるといった本件判決のような考え方よりは、説得的な結論が導けよう。

 いずれにせよ、本件判決は未確定であり、上告及び上告受理申立中である。上告審において、本件判決の妥当性について精密な検討が行われることを期待したい。

中川勘太(なかがわ・かんた):弁護士。国賠訴訟初の原告勝利をかちとった「神戸商船大学院生リンチ殺人事件」の弁護団の一員。
神戸商船大学院生リンチ殺人事件:2002年3月4日の未明、神戸で発生した事件。被害者は神戸商船大学院(現・神戸大学)の院生。自宅マンション前で、まったくの言いがかりから暴力団組長に絡まれ、駆けつけた暴力団員らによって壮絶な暴行を受け殺害された。暴行の途中、通報で複数の警察官が駆けつけたにもかかわらず、暴力団員らの言い逃れを受けて何の捜索もせずにそのまま引き上げていった。すぐ目の前の車の中に被害者は拉致されていた。警察官が捜索すれば被害者の生命は助かったはずだった。
 2003年、被害者の遺族が兵庫県警を相手取った国賠訴訟を起こす。2004年、神戸地裁は原告の請求金額どおりの賠償を兵庫県に命じる判決を下す。警察の責任を全面的に認めた初めての画期的判決だった。兵庫県は控訴するが、2005年、大阪高裁は控訴棄却、原審支持の判断。兵庫県はさらに上告したが、2006年1月19日、最高裁は控訴を棄却し、この初めての国賠勝訴が確定した。