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死の儀式は生きる者を浄化してくれる

「火葬」を受け入れる人びとと拒否する人びと

焼き場から出された骨は白く、清浄なもののように思える。同時に、もはや「その人」はいないことを改めて認識させられる。火葬は遺されたものの気持ちをも浄化してくれる儀式ではないか、とふと思う。

というのは、じつは世界普遍の感覚ではないそうだ。日本とはちがって火葬に強い抵抗、嫌悪感をもつ人々は世界には多いという。故人の肉体が消滅してしまうことが受け入れがたいのかもしれない(逆に、朽ちていく遺体が存在しつづけるほうが私には受け入れがたいが)。

「人の死」をどう扱うか。これは有史以前から人間にとって最大の問題だった。人の死は残された人々の日常を中断させる。その人の不在という現実をどう受け止め、その欠落をどうやって埋め、再び日常生活を動かしはじめるのか。

そのための儀式が「弔い」だろう。しかしその弔いのかたちは、驚くほど多様であることを本書は教えてくれる。

悲しみを激しく表現する人たち(イラン)もいれば、ぐっと抑え込む人たち(イギリス)もいる。遺体を美しく装って最後の別れをさせる(戦争で発達した「エンバーミング」技術を駆使して)社会(アメリカ)もあれば、色鮮やかなポップな棺を好む社会(ガーナ)もある。バリの火葬は壮麗な祭祀であり、シチリアの修道院には古い遺体の群れがひっそりと立ち並ぶ。椅子に座らされた遺体が弔問客を出迎える(フィリピン)などは、できれば参列したくない葬儀である。

「人の死」に向き合うことで「自分の死」を考える

著者は世界各地にこうした葬儀を訪ね歩いた。だが、読み進めるにつれて感じるのは、あまりに多様でありながらそこには何かしら共通する感覚があるように思えることだ。弔いとは死者のためのものではなく、むしろ生きている者がその生を継続していくための知恵としての儀式なのもしれない。そしてその先には、いずれ確実に訪れる「自分の死」が横たわっている。

人は弔いの儀式で「人の死」と「自分の死」の両方に向き合うことになる。

筋金入りの無神論者だったはずの著者の父は、自らの死に際して「教会」の墓地への散骨を望んだという。死を前に何が彼を変えたのか。それが著者のモチベーションであり、その思いはやがて「自分の死」への思いと重なっていく。

人はどのように「他人の死」を扱い、どのように「自分の死」に向き合うのか。多様な葬儀のかたちに触れるうちに、そんな問いが幾度も繰り返され、不思議に気持ちが浄化されていくような一冊だった。

(担当/藤田)

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