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満映、キン・フー、チャン・イーモウの関係

  キン・フー監督の現在の中国語映画史上での評価は、例えば2011年に台湾金馬影展執行委員会というところが発表した中国語映画のオールタイムベスト100というリストを見ればよく分かる。9位に『龍門客桟』、15位に『俠女』が入っている(ちなみに1位はホウシャオシェンの『悲情城市』)。他の評価もほぼ同じで、香港、北京等の映画評論家協会での発表でも、かなり上位(ベストテン内)にキン・フーの作品が入っている。

 いまや中国語映画界はその市場規模や表現レベルにおいて黄金時代を迎えているが、その歴史は決して順調なものではなかった。その中で戦前の日本が作った満州映画協会や中華電影といった国策映画会社が、ひそかな人脈的影響を与えているのは面白い。

 本書『新装版・キン・フー武侠電影作法』(元の初版1997年)にキン・フーが香港で第一作目『大地児女』、二作目『大酔侠』を撮った時の撮影監督が西本正であり、映画技術を教えてもらった師匠の一人であるというくだりが出てくる。共産革命を逃れて香港へ渡ったキン・フー青年が美術助手や俳優を経験しながら念願の監督になる。このあたりの記述は知られざる1950~1960年代の胎動期の香港映画界を描いていてとても面白い。これを補完する形で読んでいただきたいのは本書と同じく山田宏一さんがまとめた(山根貞男さんと共著)『香港への道』(西本正聞き書き、筑摩書房、2004年)である。 西本正は中川信夫監督の『東海道四谷怪談』(新東宝)の撮影監督として有名だが、そのころ香港に技術指導的な立場で渡り、何本も映画を撮っている。この西本正は戦前は満州映画協会でニュースカメラマンとして修業を積んだ人である。

 キン・フーの1950年代の香港映画界の回想には巌俊とか李麗華とかの名前が出てくるが、この人たちは上海の中華電影時代の役者である。西本正の回想では1980年に中国を再訪したときに成都の撮影所で責任者になっていた馬守清という人に30年ぶりに会って涙するところが出てくるが、この馬守清という人は西本正の満映時代の同僚のカメラマンで、岸富美子著『満映とわたし』(岸は満映のスクリプター、文藝春秋社、2015年)にもその名が出てくる。日本が負けて満映が八路軍に接収されたときに共産党側の代表者の一人になった人という。西本正と馬守清は満映が養成した最先端の映画技術者(カメラマン)だった。資金がふんだんにあったので満映には設備も機材も人材も世界で最先端のものをそろえていたのだ。この馬守清の弟子筋の一人が今を時めくチャン・イーモウ(張芸謀)監督である。ハリウッドと中国の資本が手を組んで作った『グレイト・ウォール』が今春公開されている。

 長い間政治に翻弄されて、中国的で豊かな映画表現を実現できないできた中国映画がかすかな系譜をつないでようやくここまで来た現在だが、『グレイト・ウォール』がその成果の一つというのも情けない気もするが。

 本書を読んで、東アジアの一世紀の政治的混乱とそれと関係なくたくましく花開くキン・フー的映画精神の系譜を考えると思わず楽しくなる。

(担当/木谷)

キン・フー(胡金銓)

一九三二年、北京の裕福な家庭に生まれる。一九四九年、香港へ亡命。美術助手、俳優などを経て、一九六五年、ショウ・ブラザースの『大地児女』で監督第一作を撮る。『龍門客桟』(『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』)『侠女』(カンヌ映画祭・高等映画技術委員会大賞)など生涯に長短篇一三作品を香港・台湾で監督。ハリウッド進出の直前、一九九七年急逝。

山田宏一(やまだ・こういち)

映画評論家。一九三八年、ジャカルタ生まれ。東京外語大学フランス語科卒業。近著に『ヒッチコック映画読本』(平凡社)『ヒッチコックに進路を取れ』(共著、草思社文庫)など。

宇田川幸洋(うだがわ・こうよう)

映画評論家。一九五〇年、東京生まれ。著書に評論集『無限地帯』(ワイズ出版)。

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