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『マツダの魂――不屈の男 松田恒次』著者からのコメント:中村尚樹

著者からのコメント

 昭和ひと桁世代の私の父は、山陰地方の海岸沿いにある小さな町で生まれ育ちました。戦後の物資不足の時代に運送業を始めた父は、木炭などの代用燃料を使ったトラックを運転し、朝早くに漁港で水揚げされた魚を積んで大きな町まで毎日、運びました。その頃は食糧難だっただけに、お客さんからは喜ばれ、いい稼ぎにもなったと、懐かしそうに話してくれました。
 高度経済成長の時代に入ると少しずつ、トラックの台数も増えていきました。私のまだ幼かった頃、会社の二階が自宅、一階が事務所という家族経営の環境のなかで、私の遊び場は、トラックが数台入るターミナルでした。そこで私の目を惹いたのが、マツダの三輪トラックだったのです。ひとつしかない前輪が、おちょぼ口のように見えて、なんとも愛嬌のある表情が印象に残っています。
 小学生になると、テレビ放送された「帰ってきたウルトラマン」で、MATの隊員が乗るコスモスポーツは、憧れの的でした。
 私が成長してクルマを買えるようになると、1600ccの初代ユーノス・ロードスターを購入しました。マツダの誇るロータリーエンジンではなく、レシプロエンジンでしたが、まさに“人馬一体”という表現がぴったりする走りの楽しさは、何回乗っても薄れることはありませんでした。それまで400ccのオートバイに乗っていた私ですが、マツダのすごさを体感しました。

 ところで私は、職業としてジャーナリストを選んだのですが、30年以上になる記者人生で一貫して取材し続けているのが、被爆者と核問題です。アメリカが広島、長崎に投下した原子爆弾で、核時代が始まりました。核というパンドラの箱を開けてしまった人類に、福島の原発事故や、北朝鮮の核問題など、難問が次々と押し寄せます。
 そんな私が注目したのが、被爆地広島で発展を遂げたマツダでした。これまでロータリーエンジンをめぐる開発秘話については、“ロータリー四十七士”と呼ばれた技術スタッフの努力がたびたび語られてきました。しかし、なぜ廃墟と化した広島の地でマツダが復興し、なぜ地方の後発メーカーであるマツダがロータリーエンジンを開発しえたのか、その理由について、十分に納得のいく説明が得られる文献は見当たりませんでした。そこで私なりに資料を収集し、状況証拠を積み重ねながら、マツダの歴史を再構成したのが本書です。

 主人公の松田恒次氏は、父親から社長職を引き継ぎましたが、単なる世襲社長ではありません。病気で片脚を切断した障害者であり、被爆して弟を亡くし、専務時代には会社を事実上追放されるという挫折も味わいましたしかし、そのたびに立ち上がった、“敗れざる者”なのです。
 私は障害者に関する本を何冊か書いていることもあって、恒次氏のものの見方に共感するところが、多々ありました。“作る側の論理”よりも“使う側の論理”、“組織の論理”よりも“個人の論理”に重きを置いている。それが恒次氏の自然体なのです。
 同時に、人間関係に悩んだ恒次氏が犯さざるを得なかった過ちも、首肯することはできませんが、理解することはできました。つまりは、とても人間くさい人物なのです。その恒次氏の個性が確かに、マツダのクルマづくりに今でも反映されている。私にはそう感じられるのです。

(中村尚樹・ジャーナリスト)

中村尚樹(なかむら・ひさき)

1960年、鳥取市生まれ。九州大学法学部卒。NHK記者を経てジャーナリスト。専修大学社会科学研究所客員研究員。九州大学大学院、法政大学、大妻短大等で「平和学」「地方分権論」「多文化コミュニケーション」等担当非常勤講師を歴任。著書に『占領は終わっていない――核・基地・冤罪そして人間』(緑風出版)、『最重度の障害児たちが語りはじめるとき』、『認知症を生きるということ――治療とケアの最前線』、『脳障害を生きる人びと』(いずれも草思社)、『被爆者が語り始めるまで』、『奇跡の人びと――脳障害を乗り越えて』(共に新潮文庫)、『「被爆二世」を生きる』(中公新書ラクレ)、『名前を探る旅――ヒロシマ・ナガサキの絆』(石風社)。共著に『スペイン市民戦争とアジア――遥かなる自由と理想のために』(九州大学出版会)、『スペイン内戦とガルシア・ロルカ』(南雲堂フェニックス)、『スペイン内戦(1936?39)と現在』(ぱる出版)ほか。

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