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立ち読みコーナー
甲子園怪物列伝
小関順二 著
 そして92年夏、松井は高校通算58本塁打の看板を引っさげて甲子園球場に姿を現わした。1回戦で長岡向陵高を11対0で粉砕し、2回戦は運命の明徳義塾戦。
 1回表、2死三塁の場面で登場すると、キャッチャーは立ち上がりこそしないが、明らかに外角にボール球を要求する姿勢で、ボールが4つ続いた。
 3回表は1死二、三塁の場面でキャッチャーが外角に構え、やはりボール球が4つ続く(次打者、月岩信成のスクイズで1点差に追いつく)。
 5回表、1死一塁の場面でもまったく同じだった。キャッチャーが外角に構え、河野和洋はそこに寸分の狂いなくボール球を4つ投げる。甲子園球場の観客がざわめき出すのはこのあたりからだ。
 7回表は2死ランナーなし。誰もがここでは勝負すると思った場面である。しかし、明徳義塾バッテリーは1点差リード(3対2)の僅少差におびえ、松井と勝負する気配を見せない。一塁へ歩く松井は一度、物凄い形相でマウンド上の河野を睨みつけるが、河野はこのとき松井に目を向けていないのでそのことに気づいていない。
「えっ、そうなんですか」
「ビデオで見返したからたしかだよ」
 河野がすでに打者に転向した専大4年のとき、専大合宿所でそんな言葉を交わしたことがある。ああ、河野はあの試合のビデオを見ていないんだな、と思った。
 敬遠で指示したのはもちろん明徳義塾の馬淵史郎監督である。7回2死ランナーなしのときはさすがに勝負できると思ったというが、ベンチのサインはやはり敬遠。高校球児の心中は歩かせても勝ちたいという思いと、評判になっている選手と勝負したいという思いが複雑に交錯している。しかし、高校野球の世界では監督の指示は千金の重みをもつ。敬遠を指示する伝令を「引っ込んどれボケ」と追い返した牛島和彦(浪商)の時代から12年しか経っていないが、高校野球をとり巻く世界は大きく変わっていたのである。
 勝利に貢献できなかった無念さを、松井は翌年から始まるプロ(巨人)での戦いで晴らすことができるが、河野はそういうわけにはいかない。「松井5敬遠」のトラウマは永遠に河野の人生についてまわることになる。
 専大進学後、打者に転向し、東都大学の2部リーグとはいえ16本塁打を放った河野は4年時にドラフト候補として脚光を浴びる。「今度はバッターとして勝負したい?」と聞くと、「そうですね、勝負したいですね」と河野は答えた。
 専大卒業後、ヤマハに入社。ここでもプロからの指名はなく、ほどなくしてヤマハを退社。広島の入団テスト、アメリカの独立リーグ挑戦を経たのち、ウォーレン・クロマティ(元巨人)が創設した「サムライベアーズ」に参加――というプロセスは壮絶ですらある。
 松井秀喜は03年にFA移籍し、ヤンキース入団。メジャーリーグでの4年間は順風満帆である。03〜05年の通算成績は打率.297(545安打)、70本塁打、330打点。この勇姿を河野はどんな思いで見つめていたのだろうか。井口や今岡たちとは異なる「松井の道」を河野もまた迷いながら踏みしめていることだけはたしかである。


小関順二
1952年神奈川県生まれ。日本大学芸術学部卒。1988年にドラフト会議倶楽部を創設、模擬ドラフトを開催して注目を集める。『ドラフト王国』(蒼馬社)、『プロ野球のサムライたち』(文春新書)、『野球力――ストップウォッチで判る「伸びる人材」』(講談社+α新書)ほか著書多数。