鳥居民さんの五十年来の友人の方が、鳥居さんを評して「仙人みたいな人」とおっしゃったことがある。無欲恬淡としたお人柄をそう表現されたのだろう。言い得て妙だと感じ入った。鳥居さんは表に出ることを好まなかった。それも仙人のイメージに繋がる。膨大な蔵書と新聞・雑誌の切り抜き資料に埋め尽くされたお仕事場で本を読み執筆される鳥居さんの姿を思い出す。といって鳥居さんは世の中に背を向けた隠遁者では決してなかった。日本語の新聞雑誌はもとより英字紙誌、華字紙誌を毎日読み、世界の動きを誰よりも的確に?んでおられた。無尽蔵かと思われるほどの知識を後進に与えることを無上の喜びとされた。その鳥居さんは去る一月四日、心筋梗塞のため急逝された。享年八十四。
鳥居さんは生来のシャイさもあってか、みずからについて多くを語られなかった。恐らく私が最も多く鳥居さんにお会いしていたはずなのだが、ご経歴については詳しく存じ上げているわけではない。それでも問わず語りに来し方を話されることもあり、その一端を記して「著者略歴」を補うことは私の役目でもあるかと思う。曖昧な記憶のまま書くことをお赦しいただきたい。
鳥居さんは昭和三年一月十九日、東京牛込で生まれた。祖父の代までは徳川直参の家柄であったと伺った。その後すぐに横浜本牧に移られた。お父様が三渓園で知られる原三渓と懇意だった由で、本牧に移られたのはその関係があったのかもしれない。横浜の名門、「神中(じんちゅう)」(旧制の神奈川県立第一中学校、現希望ヶ丘高校)を卒業後、水産講習所(現東京海洋大学)に進み、のちに農業経済を学ぶために台湾政治大学に留学。同じく農業経済を専攻する若き日の李登輝さん(元台湾総統)と知り合い、結婚間もない李登輝夫妻のお宅に食事に招かれたと思い出話をされたことがある。
日本に戻ってすぐに書かれた鳥居さんの「台湾レポート」を故村上一郎氏のもとに持っていったのは、草思社の創業者加瀬昌男だった。加瀬は「神中」での鳥居さんの二年後輩でもあった。その場でレポートを一読した村上氏は「これ、いただきましょう」とおっしゃり、雑誌掲載を即決されたという。このときの話は加瀬から何度も聞いた。『毛沢東 五つの戦争』から『昭和二十年』の第十三巻(敗戦の年を重層的に描いた『昭和二十年』のシリーズはついに未完に終わってしまった)まで、一冊を除いて鳥居さんの著作はすべて草思社から出させていただいた。その大半は加瀬が編集担当した。これらの著作は七十年におよぶ鳥居さんと加瀬の友情の産物でもあったといえる。互いを「民さん」「昌男さん」と呼び合っていた二人の張りのある声が今でも聞こえるようだ。
一月十二日付『産経新聞』「産経抄」が書かれた追悼の文章にあるとおり、残念なことに、鳥居さんのこれらの著作の真価は同時代には認められたとは言い難い。書評に取り上げられることも殆どなかった。鳥居さんは愚痴や繰り言が大嫌いだったから、口には出されなかったが、心中の悔しさはいかばかりだったかと拝察する。それでも己ひとりを恃みとして黙々と執筆を続けられた鳥居さんの強靭な精神力には驚くほかない。鳥居さんの最大の理解者だった加瀬は一昨年、亡くなった。加瀬の弔辞を読まれた鳥居さんは本当に突然、泉下に旅立たれた。残された者はみな、喪家の犬のように、ただただオロオロするばかりである。
[『正論』「ひと往来」(2013年3月号)掲載]