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立ち読みコーナー
麻山事件
――満州の野に婦女子四百余名自決す
中村雪子
序章

 終戦から四年を経た昭和二十四年十二月十一日の毎日新聞は、“婦女子、四二一名刺殺、敗戦直前東安省の虐殺を参院に提訴”という見出しで、元満州国ハタホ開拓団の「麻山事件」に関する記事を掲載した。
 「──日ソ開戦直後の八月九日満州東安省鶏寧県庁からハタホ開拓団本部に避難命令が発せられたがすでに空襲により混乱の極に達し鉄道は遮断されていたので開拓団員約一千名は荷馬車で牡丹江に向け徹夜で行軍、十二日ごろ麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が襲来、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二氏──東京出身──は最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し“婦女子を敵の手で辱しめられるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子十数名が銃剣をもって女子供を突き殺した。これら壮年男子はその過半は新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリヤで収容されて帰還している──」
 ハタホ開拓団は、加藤完治を校長とする日本国民高等学校ハルピン分校の出身者を中心に、昭和十一年三月、日本各県から応募した二十四戸で結成、東部満州の国境に近い東安省鶏寧県ハタホに入植した開拓団である。
 さまざまの曲折はあったが、この年、入植十年目を迎えて「開拓団祭」の計画もされていた。
 その昭和二十年八月九日、ソビエトは日本に対して宣戦を布告し、機甲軍団を中心とするソビエト軍はたちまち国境線を突破、満州国内に雪崩こんだのであった。
 昭和十九年ごろから南方へ、続いて日本本土へと兵力を抽出、転用されてすっかり弱体化していた関東軍はたちまち敗走し、その後にとり残された居留民、特に国境周辺にその多くが入植させられていた開拓団は、この時から苦難の歴史を歩むことになる。
 当時、開拓団では男子団員のほとんどが根こそぎ動員によって召集され、残っていた者は病弱者か老幼婦女子であった。
 ソビエト侵攻時だけでも、戦死や自決によって全滅した開拓団は十指にもおよび、一部落全域や十名以上の犠牲者を出した開拓団を加えるとその数は百団を数え、犠牲者の数は一万人に達した。
 自決者のほとんどは女子供である。
 記録によると窒息死(縊死、絞頸)、溺死などによるもののほかに、塩酸モルヒネ、亜砒酸、青酸加里などの薬物による中毒死が特に多い。
 八月十七日、一人の連絡員を残して二百七十二名の集団自決者を出した浜江省扶余件に入植の来民開拓団の場合も、そのほとんどが薬物による自決である。
 ハタホ開拓団の場合は、その出発時の状況から、薬物の携行はなかった。その婦女子の集団自決は男子団員の銃によっておこなわれたのである。
 
 この新聞記事が出たのは、応召中の弟の妻子六人を麻山において失った静岡県焼津市の藪崎順太郎が「麻山事件」の実情調査をと、十二月十二日、参議院在外同胞引揚委員会に提訴したことによってであった。
 その後、各新聞がこの問題をとり上げて、一躍世人の前にクローズアップされることになったのであるが、その内容についていえば各紙ともに誤りや混乱が多い。
 これは、その資料源になっていると思われる藪崎順太郎の報告書自体に問題があったことと、ニュースの報道に迅速を要求される新聞そのものの性格によるところが多いと思われる。
 藪崎順太郎の報告書から、特に新聞報道に関係のある個所を抜き出してみると、
 「──貝沼団長はここに至り最悪の場面に立到った最早逃るることは不可能なりと断定し団員中の壮年男子十数名と協議をなし婦女子を敵の手に渡すより自決せしめようとし団員一同に向かって自決を慫慂した。一同は今は逃るるすべもなして泣く泣く自決を決意したという。そこで壮年男子十数名が銃剣をもって刺殺することにした。午後四時半より約一時間にわたり同地に集合した婦女子四百貳拾壱名を無斬にも刺殺し、現実は実に阿鼻叫喚言語に絶すという。後壮年男子の一部は斬込隊を組織して敵陣に斬り込んだというがその過半数が新京、ハルピンへ逃れ或はシベリアへ収容された後日本に帰還したものである──」(参議院在外同胞引揚委員会に提出された報告書より)となっている。
 この藪崎報告をもとにしたために、新聞記事は、冒頭に引用した毎日新聞のほかにも、
 「──団長貝沼洋二氏は壮年男子十数名と協議して『婦女子を敵の手に渡すよりは』と団員に自決をすすめ、男子十数名は約一時間にわたって婦女子に銃剣をふるい四百二十一名を刺殺、団員は各地に逃亡した──」(十二月七日付、アカハタ)などと銃剣をふるっての虐殺事件として描き出している。
 当時、この新聞記事を読んで疑問を投じた人物がいた。それは生き残りの団員の一人、上野勝であった。彼は同じ生き残りの団員、笛田道雄にあてて、「『毎日』には刺殺、突殺と出ているが余りにも記事が脱線しているように思うが如何。銃殺のあったことは充分判断できるが銃剣で刺したとは毛頭考えられぬ。若しそういう証人ありや」と手紙を書いた。
 十数名の男子が銃剣によって四百二十一名を、わずか「約一時間」(アカハタ)で刺殺するなど神業ででもなければできそうもないことで、その点を配慮してか毎日新聞の記事は「四時半ごろから数時間にわたって銃剣をふるう」となっている。
 しかし、たとえ数時間かけたとしても、敵の包囲下で十数名の者が四百名以上もの人間を刺殺することが肉体的にも可能かどうか。
 自決に立ちあった男子団員は、ハタホ開拓団だけでも二十二名、ともに行動した隣接南郷開拓団員を合わせると四十八名となり、十数名というのは誤りである。
 調査に時間をかけ、生き残り団員の談話なども取材して、比較的事実に近いものとして読むことのできる朝日新聞の記事にしても、
 「──午後四時すぎ砂糖、アメ玉が配られ、ささやかな宴がはられた。水筒の水で形ばかりの死出の杯がかわされた。やがて万才の三唱を合図に貝沼団長はピストルで夫人と愛児を射殺、かえす銃口をそのまま自分の頭に当てて真先に自殺し果てた」となっているのだが、貝沼団長夫人は、子供とともに先発していて(後に拉古の収容所で志望したものと推定される)この自決現場にはいなかったのである。
 いずれにせよ、この事件を新聞は正確には伝えなかった。


中村雪子
一九二三年、北海道に生まれる。長野県立岡谷高等女学校を卒業の後、一九三九年、満州に渡り、一九四二年に結婚。一九四六年、満州より引揚げる。一九五九年より名古屋女性史研究会に、一九七九年より東海近代史研究会に所属。著書に『福田英子研究』(共著)、『母の時代』──愛知の女性史──風媒社刊(共著)がある。