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立ち読みコーナー
MPのジープから見た占領下の東京
原田弘
消防手から警察官へ転官する

 昭和二十年九月三日、それまで消防手だった私は、この日をもって警察官に転官した。当時、消防は警視庁消防部に属しており、消防手の身分も巡査と同じ判任官待遇であった。その日、私は愛宕警察署の北隣にあった警視庁警察練習所に入所し、警察官になるべく一か月の速成授業を受けることになったのである。
 私が警視庁消防部へ採用されたのは昭和十九年三月である。このころはまだ空襲ははじまっていなかったが、警視庁ではすでに消防手を大増員していた。私はそれに応募したのである。初任給四十五円であった。それが終戦時になると山の手も下町も大半は焦土と化し、敗戦でもう空襲はなくなった。あったところで焼ける可能性のある場所もほとんどない。消防車も残り少なく、地方からの供出車をふくめて五百台ぐらいあった消防車が半分以上焼けてしまった。あまったのは消防手だけということで、玉音法曹から一週間も経たぬ八月二十日ごろ、警察官への転官希望者が募られた。このとき各消防署からの希望者二百三十二名が警察官として採用されたのである。私の所属していた杉並消防署からも、未成年の年少消防手など十数名の者が警察官に転官することとなった。
 警視庁警察練習徐主事の高橋和市氏の前で面接試験がおこなわれた。ここで帰されるようでは、どの面さげて前任署に戻れようか。腹が減ってはいても大声で質問に答え、相手の心証をよくしようとつとめた。結局、面接ではほとんどの者が合格したようだった。
 私ども十九歳の未成年者グループは、教官の中でもいちばん厳しいと言われていた坂田一喜という教官の生徒となった。成年組の教官はたしか水落という人だったと記憶している。当時の警察学校はさまざまな旧軍隊出身者でふくれあがっていた。私たち消防部からの転向組は元消防手だけのクラスだったが、他のクラスには特攻隊出身者、予科練出身者、現地除隊の兵士など、いろいろな連中がいた。旧軍が解体されたあと、警察はそこからあふれ出た人たちの受け皿となっていたのである。私と同年の名簿を見ると第四方面監察官に“警視”中曽根康弘の名前が見える。警視といえばエリート中のエリートだが、彼もまた軍隊からの復員組であった。その他、坊さんとか歌手などの変わった職歴の人もいたが、彼らは戦時中、地方に疎開していたために人口流入の制限をしていた東京へもどってこれなくなった人たちで、警視庁につとめることを手段に帰京しようとしていた人たちだった。
 愛宕署の隣の警察練習所、いわゆる田村町の警察学校はいっぱいだったので、私たちは近くの桜川小学校に教室を借りて、一部の生徒たちはそこで授業をうけるありさまだった。芝の増上寺にも教室があり、増上寺分校と称していた。この増上寺分校では「勤行」と称して、私たち生徒に建ったり座ったりのお経をあげさせるのには閉口させられた。
 こうしてふつう二か月の練習徐生活のところをわずか一か月で卒業し、それぞれ各署へ配置となった。忘れもしない卒業当日の十月十日は朝から雨で、十月といってももう冬のように寒い日だった。異例なことだが、私たちは卒業写真も撮らず、在校生の見送りもないままに校門を出た。私は赤坂の表町警察署勤務という辞令をもらい、その日のうちに同僚十名ばかりと表町署へ向かった。
 誰も表町署などという署を知らないので、都電の運転手に聞く。浜松町から四谷見附行きの小さい電車に乗った。窓などはほとんどガラスがなく、ベニヤ板で打ちつけてあった。運転手も雨ガッパを着て、風雨の吹きつける運転台で運転していた。赤坂見附で下車して、今度は渋谷行きに乗る。そのころの赤坂見附の殺風景なことといったらない。右の高台には元閑院宮邸があったが、完全に焼け落ち、レンガの残骸の塊りが外堀通りのほうに崩れている。地下鉄駅のくすんだネズミ色の建物のほかには何もない。ところどころに土蔵が焼け残っていた。
 ようやく表町警察署に着いたが、焼けビルとなっており、中はガランガランであった。署長の浦島正平警視はベニヤ板で仕切られた仮部屋に就務されていた。まず。「署僚警部」という、いまでいえば副署長にあたる人物から「態度に元気がない」「声も小さい」と気合いを入れられた。つづいて各部所に「申告」というあいさつまわりをする。それもできるだけ大声でするのである。このころ刑事課は司法主任、交通は交通主任という名で呼ばれて、警部補が責任者であった。
 誰もが恐い顔をしているので驚いた。消防署ではこんなに恐い顔をした上司はいなかった。消防は火を消しさえすればいいが、警察は人が対象だ。それも悪い人間を相手としなければならないから、こんなに恐い顔になるのかとも思った。しかし、それはそのときだけのことだった。その日、申告しにまわった主任たちの中には、東京帝大卒の人がいて、この人はとくに同じ警察の中でも、どちらかというと少々恐い、厳格な人であったとあとでわかってほっとした。


原田弘
昭和二年、東京杉並に生まれる。日大三商卒業。昭和十九年、警視庁消防部に採用され、杉並消防署に配属される。昭和二十年九月、警視庁警察官へ転官、表町署(現赤坂署)に勤務。昭和二十四年、警視庁より「MP同乗警察官」として派遣され、昭和三十四年まで勤める(途中、中断あり)。以後、パトカー勤務、築地署勤務などをへて、昭和六十年、通信指令本部勤務を最後に退職。著書に『銀座故事物語』(新人物往来社)『銀座』(白馬社)がある。また『築地警察署史』の編纂に携わる。現在、日本歴史学会会員、日本民族学会会員、杉並郷土史会副会長。杉並区和田在住。