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立ち読みコーナー
満州に消えた分村
――秩父・中川村開拓団顛末記
山川暁
序章 歳月

「北国の春」は唄わない

 一九九二(平成四)年八月、私は中国残留日本人孤児のアンシュウメイとリーイエンミンに会うため、成田から北京行きの便に乗った。アンシュウメイとリーイエンミンの両親は、埼玉県の秩父盆地にある荒川村から、かつて日本人が「満州国」と呼んだ中国の黒龍江省の奥地へ送りだされた集団農業移民弾(それは満州開拓団と呼ばれた)の団員であった。
 北京で通訳のシェンミンファと落ち合い、黒龍江省のハルビンに着いたのは八月六日であった。中国が経済開放政策を進めてきたことで、私のような組織に属さないフリーライターもそれなりに取材ができるようになった。むろん通訳も個人で選ぶことができる。
 通訳のシェンミンファとは四年前、旅の途中で偶然知り合った仲であった。私は六人の仲間と四輪駆動車で、上海からシンジァンウイグル自治区のカシとのあいだを往復する機会に恵まれた。外国人旅行者には車の運転が許可されていないなかで、特例を認められての自動車旅行だった。
 シェンミンファと出会ったのは、その復路のアンホイ省鳳陽であった。シェンミンファは、日本の化学メーカーから派遣されてきた日本人社員のために、通訳として鳳陽に滞在していたのである。招待所(中国の宿泊施設)に入ると、服務員の一人から、招待所に日本語を話す女性が滞在していると知らされた。どんな人物なのかに興味を持ち、会ってみた。それがシェンミンファだった。
 会って話すと、シェンミンファは私に、榊原郁子という日本名を持つ中国残留日本人婦人であることを打ち明けた。榊原郁子(昭和七年生)が両親と四人の姉弟とともに、北海道から酪農開拓団として満州に渡ったのは一九四五(昭和二十)年五月だった。郁子の一家は内地から送った家財道具の荷ほどきもまだすませないうちに、八月十五日を迎える。敗戦の混乱のなかで、郁子と姉と妹の三人は奉天(現在の瀋陽)で、父親によって中国人の手に渡された。郁子の両親は二人の弟だけを連れて帰国したのである。そして中国に残された三姉妹のなかで、郁子一人だけが生き残ることができた。
 戦後育ちの私は、ある時期まで、榊原郁子のような残留婦人(厚生省は、敗戦時十三歳以上の女性を自分の意思で中国に残ったものとみなし、「残留孤児」とは区別して「残留婦人」と呼んでいる)や、アンシュウメイやリーイエンミンのような残留孤児の存在を知らずにいた。彼らの存在に気づき、関心を持ったのは、一九八一(昭和五十六)年に厚生省が残留孤児を来日させ、肉親捜し調査を開始したことがきっかけであった。テレビに映しだされる残留孤児の多くは私と同世代の人たちだった。戦後三十六年もたった中国に、いまだに千人をはるかに超える私と同世代の日本人が置き忘れにされたままになっているのを知らずにいた私には、それは驚きだった。
 あらためて残留孤児に関心を持ち、関係資料に当たってみると、肉親捜し調査が開始される六、七年前から、中国からかなりの数の残留孤児や残留婦人が帰国していることを知った。それは一九七二(昭和四十七)年に中国との国交が正常化され、日中航空協定が結ばれて、東京および大阪と北京、上海間に航空機の相互乗入れが実現し、日本政府が一時帰国を含め、残留孤児などの帰国旅費を負担するようになった結果であった。
 帰国した残留孤児はどんな生活を送っているのだろうか。そのことにも関心をひかれ、厚生省に足を運んだ。しかし厚生省には私が知りたいと思う資料はなく、応対してくれた四十年配の事務官はこう言った。
 「秩父の荒川村には中国からの帰国者がかなりいるらしいです。帰国者がどんな暮らしをしているかを知りたいのなら、荒川村へ行ってみたらいいでしょう」
 この事務官の言葉には残留孤児を思いやる温かみは感じられなかった。
 私が初めて秩父盆地にある荒川村を訪ねたのは一九八二(昭和五十七)年だった。村役場で住民福祉課長の山田文彦に会った。山田は、荒川村が中国からの帰国者を受け入れていることについて、その理由をこう説明してくれた。この村から満州開拓団を送りだしたためだ、と。
 満州へ送りだされた開拓団は敗戦ですべて崩壊する。そして、そのことによって多くの残留孤児と残留婦人が生みだされた。残留孤児の問題を正しく理解するためには開拓団について知らなければならない。こうして私は、荒川村から送りだされた開拓団について、その計画の段階から調べてみることにしたのである。
 荒川村は太平洋戦争のさなかの一九四三(昭和十八)年二月に、中川村と白川村とが合併して生まれた村である。そして合併前の中川村から送りだされたのが中川村開拓団であった。
 中川村開拓団について本格的に取材を開始したのは、さらにその一年後のことであった。取材をはじめてみたが、村には資料らしきものはほとんど残されていなかった。だが幸いにも、荒川村には開拓団の元幹部で、農事指導員をしていた宮崎由雄(明治四十三年生)が健在であった。また十分とはいえないまでも、元団員とその家族にも直接会って話しを聞くことができた。
 一方、取材を進めていくうち、できることなら中川村開拓団が入植した現地を訪ねてみたいという思いもわいてきた。その願いは一九八九(平成一)年の夏に実現する。私は中川村開拓団の関係者とともに訪中し、開拓団のあった現地を見ることができた。そしてそれから三年、ふたたび中国に渡り、アンシュウメイとリーイエンミンを訪ねることになったのである。


山川暁
1941年東京に生まれる。早稲田大学卒業。出版社勤務をへて執筆活動にはいる。著書に『ローラースケートでアメリカを横断した』(草思社)『元気晩成』(新潮社)『ニッポン靴物語』(新潮社)『皇帝溥儀と関東軍』(フットワーク出版)などがある。