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立ち読みコーナー
われわれはなぜ死ぬのか
――死の生命科学
柳澤桂子
死とは何か

 私たちの寿命は、受精の瞬間から時を刻みはじめる。産声をあげる10ヵ月も前から、私たちは死に向けて歩みはじめるのである。しかし、その歩みは、はじめから崩壊に向かっているのではない。一個の受精卵は60兆個の細胞に増え、人間という小さな宇宙を形成する。脳が発達して、喜怒哀楽を感じ、考え、学習する。自意識と無の概念は死へのおそれを生むが、死への歩みは成熟、完成を経る歩みである。100年に満たない死への歩みのなかで、私たちには自分を高める余地が残されている。
 死は生の終着点のように思われているが、決してそのようなものではない。死は生を支え、生を生み出す。受精の際には、たくさんの精子が死に、残された一つの精子によって生命が誕生する。一つの生のためにおびただしい数の死が要求されている。死は生とおなじようにダイナミックである。
 生命の歴史のなかでは、生と死はおなじ価値をもつ。生きている細胞より、死んだ細胞の数の方がずっと多いという意味において、それは死の歴史であるともいえる。36億年の生命の歴史のなかに編み込まれた死を避けることはできないし、それは避けてはならないものである。死によってこそ生は存在するのであり、死を否定することは生をも否定することになる。
 多細胞生物にとって、生きるとは、少しずつ死ぬことである。私たちは死に向かって行進するはてしなき隊列である。36億年の間、書き継がれてきた遺伝情報は、個体の死によって途絶える。個体の死は36億年の時間に終止符を打つ。生殖細胞に組み込まれた遺伝情報だけが生きつづける。
 このように見てくると、私たちの意識している死というものは、生物学的な死とはかなり異質なものであることがわかる。生物学的な死は36億年の歴史を秘めたダイナミックな営みである。それは、適者存在のためのきびしい掟である。
 一方、私たちの意識する死は人間の神経回路のなかにある死である。それは意識のなかの死であり、心理的な死である。死は私自身の問題であり、親しいものに悲しみをあたえる。それは36億年の歴史とは無関係な感情であり、むしろ静的なものである。
 一方、脳死問題などに代表される医学的な死は、生き返ることのできない点を見きわめるということをもっとも重視する死である。どこまで壊れれば、修理不能であるかという意味での死である。ポイント・オブ・ノー・リターン、すなわち死である。そこには、生物学的な死がもつ36億年の歴史の重みもダイナミズムもない。また、人間の死がもつ深い感情も排除されている。
 尊厳死を考えるにしろ、安楽死を考えるにしろ、死の生物学的な側面、心理学的な側面を十分に考慮する必要があるのではなかろうか。36億年という想像を絶するような長い時間を生殖細胞を通して受け継がれてきた遺伝情報が消滅する瞬間としての死、生命の大きな流れからそれて、死の運命を負わされた細胞が形成する個体が消えていく瞬間としての死、そこに宿る意識の受けとめている死、その人を取り囲む人々の感じている死など、死はけっして脳波が平坦になった状態だけでもなく、心臓が止まる瞬間だけでもない。
 いのちには36億年の歴史の重みがあり、100年の意識の重みがあり、その人をとりまく多くの人々に共有されるものであるという側面がある。死は生命の歴史とともに民族の歴史、家系の歴史、家族の歴史、個人の歴史すべてを包含するものである。このように大きな視点で生や死をとらえなければ、人間は死を私物化して意のままに支配し、かぎりなく傲慢になるであろう。


柳澤桂子
1938年東京生まれ。お茶の水女子大学を卒業後、コロンビア大学大学院を修了。生命科学者として研究の第一線にいたが、病に倒れ断念。以来闘病をつづけながら、「生命とはなにか」を問う著作を執筆してきた。著書に、『二重らせんの私』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞、早川書房)、『われわれはなぜ死ぬのか』、『生と死が創るもの』、『ふたたびの生』(以上、小社刊)他多数。