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立ち読みコーナー
ふたたびの生
柳澤桂子
一九九七年

 私の病状は徐々に進行して、ものを飲み込むのが非常に困難になってきた。飲み込んだものが胃に届くまでの間、食道がけいれんするのか、激しい痛みが起こった。特に生野菜を食べたあとは痛みがひどかった。このようにして少しずつ食べられるものの種類が減っていった。
 食パンが食べられなくなって、パンがゆになり、ご飯はおかゆに、野菜はよく煮て刻むというふうに、食事に手がかかるようになっていった。そのしわ寄せはすべて夫にいった。薬の錠剤が服めなくなって、薬屋さんにすべて粉にしていただいた。これはたいへんな手間であったと思う。
 このころから田村先生は中心静脈栄養のためのカテーテルを挿入することを勧められるようになった。中心静脈栄養というのは、首や鎖骨のそばを通る静脈から心臓のそばの中心静脈に細いチューブを入れて、点滴とおなじように液体の栄養分を入れる方法である。末梢の静脈からでは生命を支えるに十分な栄養を補給することはできないが、中心静脈栄養では、何も食べなくても生きていける。私の嚥下障害が次第にひどくなるので、田村先生は、栄養を補給するためにこのような治療を勧められたのである。
 このころの私は字を書くことが困難で困っていた。手が疲れて、幽霊のような字でひどく曲がって書かれた手紙やファックスを送ることは、あまり気持ちのよいものではない。脚も力が入らず歩けなくなっていった。ときには立とうとすると、がくんと膝から崩れるように倒れてしまうこともあった。さらに排尿障害が加わった。
 また時折自分が誰だかわからなくなった。わからなくなって困るということはわかるのであるが、どうしても自分が誰だかわからない。この状態は短いときで数分間、長いときには一時間以上つづいた。
 そのほかにも自分と周囲との距離がおかしくなってしまったり、どこにいるのかわからなくなることもあった。このような症状も不快なものであったが、眼底の痛みよりは耐えやすかった。この痛みはセデスなどの鎮痛剤では治まらなかったが、副腎皮質ホルモン(プレドニン)が有効であった。眼の痛みよりさらにつらいのが不整脈である。この症状は初期のころから出ていたが、このころになって、ますますひどくなり、頻繁に、しかも長時間つづいた。

(中略)

私はできるだけ自然に逆らいたくなかった。科学技術の進歩につれて、私たちはあまり深く考えずにその恩恵に浴している。ときには、恩恵が害に変わっていても、それに気づかずにいることもある。終末期医療では、特にこの点が問題になる。自然の死は到来しているのに、医師が処置を中止することをためらって、いたずらに生を長引かせてしまう。
 中心静脈栄養は操作が簡単で、チューブはすぐに挿入できるので、医師の側にも患者の側にも科学技術に頼っているということが認識されにくい。しかし、この技術は「食べる」という動物のもっとも基本的な行為に関するものであるだけに、人工呼吸器とおなじ重みをもっていると私は思う。いったん挿入された中心静脈栄養は止めるわけにはいかない。それを止めるということは、止められた状態が自然本来の姿であるにもかかわらず殺人行為と感じられることにもなるであろう。
 食事をしなくても生きていけるということは、これから、どんなに苦しい状況になっても、生きつづけなければならないということかもしれなかった。食事の摂取以外のことで、何か致命的なことが起こればよいが、さもなければ非常に苦しい状態でも生きなければならないだろう。私の病状から考えると、そのようになる可能性は高いように思われた。
 それに介護の問題があった。私は入れるところがあれば、どんなに条件が悪くても病院に入りたかった。私が家にいることは夫や子供たちまで巻き込んでたいへんな苦労をかけることになる。そのつらさとくらべれば、病院の条件が悪いことには耐えられると思った。介護の中には、実際の看病のほかに、精神的な苦労も含まれる。私がひどく苦しむときに、家族はそれに耐えられるだろうか。耐えられないであろう。来る日も来る日も看病で、いつ終わるともわからないときに、ほとんどの人は苦痛を感じることを私たちは見聞きしている。事実、この翌年の春に、夫はもう耐えられないといいだした。介護のかなめで重要な役を果たしている夫が倒れるということは、すべてがだめになることを意味している。
 私が中心静脈栄養をしていただこうと決意するまでにも症状はどんどん進んでいった。ついに10月に入って緊急に決断しなければならない状態になった。私は田村先生に、
「食べ物を食べられなくなったら、動物は死ぬのが運命ではないでしょうか」
と思い迷う気持ちを表現した。先生は、
「でも、生きつづければ、まだ動物以上の何かができるでしょう」
と答えられた。当時私は二冊の本を書いていたので、それを書き終えてしまいたいと強く願っていた。田村先生の答えとこの願いが重なって、私は中心静脈栄養を受ける決意をした。しかし、過剰医療を受けてはいけないという気持ちは、いつも私の心の中にあった。


柳澤桂子
1938年東京生まれ。お茶の水女子大学を卒業後、コロンビア大学大学院を修了。生命科学者として研究の第一線にいたが、病に倒れ断念。以来闘病をつづけながら、「生命とはなにか」を問う著作を執筆してきた。著書に、『二重らせんの私』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞、早川書房)、『われわれはなぜ死ぬのか』、『生と死が創るもの』、『ふたたびの生』(以上、小社刊)他多数。