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立ち読みコーナー
北朝鮮を知りすぎた医者 国境からの報告
ノルベルト・フォラツェン / 瀬木碧 訳
 日本のみなさんへ

 北朝鮮に関する私の最初の本が日本で出版され、東京でたくさんのジャーナリストからインタビューを受けました。韓国で失望を味わったあとだけに(第十章 太陽政策は有効か「韓国人医師の不可解な行動」)、朝鮮問題が日本でいかに大きな関心をもたれているかを知って驚きました。また、日本のジャーナリストの仕事ぶりにもびっくりしました。かれらはじつにしっかりと準備していただけではなく、だれもが私の本をきちんと読んでいたからです。私の経験によれば、これはヨーロッパではなかなかないことです。したがってインタビューや記者会見でのおびただしい質問は、どれもが非常に正確で核心に触れるものでした。これらの質問を通してよくわかったのは、北朝鮮にたいする大きな関心だけでなく、そこで暮らす気の毒な人々の運命に関する真摯で純粋な同情が社会全体にあることでした。人々は手をさしのべたいと思っているのです。
 けれども、この援助はあの虐げられた北部にとってのみ必要なのではありません。朝鮮全体に緊急に必要なのです。なぜなら、分断された国家の南部で半年、北部で一年半過ごした結果、かの地で起こっている問題の多くは、朝鮮の人たちのメンタリティーや政治、さらに歴史にその原因があるということを、日に日に感じるようになってきたからです。北朝鮮というかくも時代錯誤な存在は、二十一世紀の今日、朝鮮半島をおいて世界のいかなる場所にもありえないように思われます。
 前著では、当時まだ平壌で活動していたかつての同僚にたいする配慮から、いくつかの事件を省かざるをえませんでした。現地でのかれらの活動を危険にさらさないためです。かれらが再びドイツに戻ったいま、もはやその危険はありません。そこで、北朝鮮で書いた日記に徹底的に手を入れ、読者の方々の要望に基づいて、これまで公開しなかった事実を残らずお伝えすることにしました。
 北朝鮮での出来事のなかには、韓国に来てからようやくその意味がわかったものも少なくありません。また、ドイツ緊急医師団〈カップ・アナムーア〉という国際的なNGO(非政府組織)のスタッフであり、友好メダルのおかげで多くの自由があったにもかかわらず、私は北朝鮮の強制収容所の実態について何ひとつ知りませんでした。難民たちから話を聞いて初めて知ったのです。この本では、私が診療した中朝国境にいる難民のようす、さらにかれらから聞いた強制収容所の実態について報告します。
 ここしばらくのあいだに、北朝鮮にたいして、国際社会なかでもドイツ政府によって多くの外交上の努力が払われ、ある特別な協定が結ばれました。その協定とは、ドイツのジャーナリストや外交官、人道救助のスタッフが、北朝鮮で以前より多くの行動の自由を保障されるというものです。この点についても詳しく述べるつもりです。
 北朝鮮から追放されたあと、ソウルやアメリカ、タイ、中国、日本を訪れたさいの活動、またジャーナリストや人権擁護機関スタッフ、政治家たちとの出会いについても報告します。これらの旅の目的は情報を公開することでした。たとえばアメリカの人々は、北朝鮮の悲惨さについてほとんど知りません。中国やソウルでは中朝国境の町、延吉付近にいる難民の生活に関するさまざまな情報を得ることができました。またここで初めて、北朝鮮における強制収容所の具体的な証拠が得られました。国境地帯を訪れ、診察や治療をし、薬を届け、中国当局の取締りのために危険になるいっぽうのこの地域に、きちんとした難民収容所をつくる準備をしました。
 それから韓国の「太陽政策」、アメリカの姿勢、韓国と日本の対立、さらにヨーロッパの動きなどについての私の考えも記します。その他のアイデアや提案は、アメリカ人の著者たちの交流から生まれた。ブッシュ新政権における政治的な状況について、北朝鮮に関する重要な本の著者であるかれらとじっくりと話しあい、大いに得るところがありました。
 北朝鮮の残虐行為にたいしてジャーナリストたちの関心が強まったことから、国際的な援助者たちの本格的なネットワークが生まれました。インターネットを通じて活発な意見交換がなされ、反響がしだいに大きくなっていくのに励まされています。

 なお、巻末に参考文献と連絡先アドレスをまとめておきました。ひょっとすると、国際的な援助や協力によって北朝鮮の政治状況を変えられるかもしれません。
 本書は、虐げられた北朝鮮の人々への国際的な関心と援助を勝ち取るための「ネバー・エンディング・ストーリー」の続篇なのです。


ノルベルト・フォラツェン
一九五八年、旧西独デュッセルドルフ生まれ。デュッセルドルフ大学医学部卒業。モルディヴでの医療活動、大学講師、心身医学病院勤務を経て、九〇年、ゲッティンゲンで開業。九九年七月、ドイツ緊急医師団〈カップ・アナムーア〉に加わり、北朝鮮へ。火傷患者への皮膚移植に協力して「友好メダル」を授与され、比較的自由に国内を移動。二〇〇〇年秋に訪朝したオルブライト国務長官(当時)の随行記者を平壌市内に案内したこと、人権抑圧改善を当局に訴えたことから、同年末に国外追放となり、ソウルへ脱出。このとき十六冊の日記と写真、ビデオを持ち出すことに成功。