www.soshisha.com
立ち読みコーナー
ヘッセの読書術
ヘルマン・ヘッセ / フォルカー・ミヒェルス 編 / 岡田朝雄 訳
 保養地での読みもの

 私たちが避暑に行くのは、読書のためでないことは明らかである。それにもかかわらず、このときにだけ静かに本を読むことができるという人が多い。そして保養先で本を読むことなど考えていなかった多くの人も、雨の日とか、その他の事情で本を読まざるをえなくなることがある。私の経験では、保養中には断じて一行も読むまいという決心をすることほどすばらしいことはない。そしてそのあとで、適切な機会に、本当にすばらしい本を読んでこの当初の決意を裏切ることほど楽しいこともない。
 子供たちや女性たちや召し使いたちを連れて湯治場とか山岳地帯に旅行する紳士淑女は、何をもっていったらよいかをよく考え抜くのが普通である。淑女であれば、オースンデへ行ってはじめて新しいイヴニングドレスをもってこなかったことに気づくなどということはほとんど起こらない。人びとは革のトランクから歯磨き粉にいたるまで必要不可欠なものを綿密に考える。そしておつきあいをする人を探し、不倶戴天の敵よりも従兄弟か友人たちと同じ保養地へ行く方を好む。それから慎重にホテルを選び、ホテルの中では念を入れて部屋を選ぶ。そしてまもなく、どこで最高においしいコーヒーと最高に冷たいピルゼンのビールを飲むことができるかを知る。
 これらすべての慎重さは見上げたものだ! しかし、帽子から短い編上靴にいたるまで、よく考えて選び抜いたもの以外は決して身につけず、友人の洗濯にも非常に用心深く、そしてホテルでは北側に窓のある部屋をとることは決して好まないこの淑女が、雨の日には、低級な本を読んであくびをしながら過ごす。もちろん本は一冊ももってこなかったし、今や保養地の本屋が彼女に提供するものしか買えないからである。
 しかし保養地の本屋は、買い手を教育するために保養シーズンに多忙な労働をする気など毛頭なく、いずれにしてもわずかなストックしかもっていない。本屋の関心は、数種の売れ行きのよい本をできるだけたくさん売ることなのである。
 そこで、銀行家も、女家庭教師も、区裁判所の判事も運転手もすべて同じように、脱走した王女の回想録や、殺人物語や、軍隊生活に取材した風刺作品などを、たまたま「ベストセラー」なので買うことになるのである。
 家に『ゲーテ全集』を読まずに陳列しておくその同一人物が、ゲーテ全集のうちの一巻とか三巻を避暑にもってくることは決してなく、毎年、少数の例外は別として、結局はいつも、まったく同じ内容で、タイトルと表紙が変わっただけの「ベストセラー」をくりかえし買う。
 今や夏の保養シーズンはクリスマスの前と同様に、私たち書評家にとっては、羽ペンをけずって、私たちの民族の教育を試みる希望の時である。
 そういうわけで私は、王女の回想録や強盗小説を買う読者のうちからほんのわずかな人びとでも奪い取りたいというひそかな願望を抱いて、それを試み、よい質をもった数冊の最近の本について報告しようと思う。けれどその前に、私はあらゆる避暑客に、心から「今度こそはまったく何も読むまい!」という決心を固めるようにお勧めする! なぜなら、そもそもよい本とよい趣味の敵は、本を軽蔑する人や字の読めない人ではなくて、乱読者である。

 (一九一〇年)


ヘルマン・ヘッセ
一八七七〜一九六二年。ドイツ、ヴェルテンベルク州生まれ。詩人、作家。一九四六年ノーベル文学賞受賞。代表作に『郷愁』『車輪の下』『デーミアン』『シッダルタ』などがある。

編者:フォルカー・ミヒェルス
ドイツの出版社ズールカンプ社の編集顧問。ヘッセ研究の権威者。ヘッセの遺稿・書簡を整理し、『蝶』『色彩の魔術』(以上、岩波同時代ライブラリー刊)などを編集してヘッセ復権に貢献。

訳者:岡田朝雄
一九三五年東京生まれ。東洋大学教授。著書に『ドイツ文学案内』『楽しい昆虫採集』(共著)、訳書にヘッセ『蝶』『色彩の魔術』、F・シュナック『蝶の生活』などがある。