www.soshisha.com
立ち読みコーナー
評伝ヘルマン・ヘッセ(上)
――危機の巡礼者
ラルフ・フリードマン / 藤川芳朗 訳
第五章 危機から戦争へ より

 『デーミアン』を書き上げたのち、ヘッセはふたたび戦時の日常生活に戻った。この生活はさらに一年半つづくことになる。結婚生活は、ミアの情緒不安定と彼自身の抑鬱症にもかかわらず、惰性でかろうじてつづいていた。そんな状態を打破し、新しい自分の道を見つけようというヘッセの決心は、揺るぎないものになっていたのではあるが。一方、捕虜のための奉仕活動はますます心身を疲労困憊させた。それでもヘッセは相変わらず独力で義損金と援助物資を集めた。このような状況ではあったが、1一九一八年の春にはティチノに出かけて、短い休暇を楽しむことができた。
 心のなかではすでに家族と離別していたこの時期にも、息子たちのことは友人や姉妹への手紙でたびたび言及しているが、そんなときのヘッセはどこまでも子供自慢の父親であった。アディスは九歳になったばかりのハイナーが書いた押韻詩の習作まで読まされている。また、徒歩旅行が特に好きだったブルーノも、ヘッセ自身によれば、父親の後を継ぐことになりそうであった。しかしこのころは、ヘッセ自身や一家の生活のためにも、捕虜の救援活動のためにも、つねに金が不足していた。そこで彼は、少しでも経済を楽にするために、原稿を売りはじめ、売るための原稿を書くようになった。八月、ミアが五〇歳の誕生日を迎え、ヘッセが救援活動の事務所ともどもベルンの市街に近いところに移ったころから、夫婦間の緊張は今一度中休みとなった。ヘッセの家庭生活は一九一八年一〇月に最終的に崩壊するのだが、このとき状況の変化と離別のきっかけとなったのは、皮肉なことに結婚式だった。
 結婚したのはヘッセの弟ハンスであり、離別はヘッセが家族のもとを去るという形で行われた。ヘッセのこれまでの人生の微妙でやっかいな問題は、個人的なものにせよ政治的なものにせよ、『デーミアン』という作品によってすでに象徴的な形で解明されていた。しかし、ヘッセが相変わらず自分は危機にさらされていると感じていた最大の原因が、気が滅入るほど対照的な弟との関係だった。ハンスは一九一一年からやはりスイスに住んでおり、アールガヴ州のバーデンでブラウン=ボヴァリィ電気工業という会社の庶務課で文書係として働いていた。バーデンは工場制手工業の町であるとともに保養地だった。ヘルマン・ヘッセは、一九二三年以降は少なくとも年に一度は、長期の温泉療養のためにこの小さな町を訪れることになるのだが、このときはまだ弟の住んでいる町として知っているにすぎなかった。ハンスはそれまでさまざまな仕事についたが、ことごとく失敗していた。その弟が、一〇月初めに結婚するといって式への出席を頼んできたとき、ヘッセは、気がかりなことはいくつかあったが、招待を受けることにした。断ることはできないと思ったからで、不承不承といったところであった。それというのも、戦争はいよいよ末期的な症状を見せはじめ、国境はすべて閉鎖されていたために、ドイツに住んでいるほかの親族は出席できなかったのである。小品「ハンスの思い出」のなかでヘッセは、このときどんなにつらい思いで結婚式に出席したかを書いている。たんに戦時下の狂奔や精神的圧迫、あるいはさばききれないほどの仕事のせいだけではなかった。彼自身が「絶望の淵に追いやられて臆病に」なっていたからで、「まだかろうじて来る日も来る日もやっかいな義務の仕事を背負いこみ、自分の感覚を麻痺させてはいたが、もうずいぶん以前から、ほかの人といっしょに騒いだり、楽しんだり、ましてやお祝いをするなどということは、とうていできなくなっていた」。


ラルフ・フリードマン
一九二〇年ハンブルク生まれ。一九四〇年にアメリカに渡る。アイオワ州立大学をへて、プリンストン大学比較文学科教授。著書に『叙情的小説──ヘルマン・ヘッセ、アンドレ・ジッド、ヴァージニア・ウルフ研究』(一九六三年)、『詩人ライナー・マニア・リルケの生涯』(一九六六年)、編著書に『ヴァージニア・ウルフ』がある。

訳者:藤川芳朗
一九六八年、東京都立大大学院修了。現在、横浜市立大学教授。主訳書に『モスクワの冬』(ベンヤミン)、『カントへの旅』(ヴァイス)、『グリムが案内するケルトの妖精たちの世界』(クローカー)、『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(クリストフ編)などがある。