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立ち読みコーナー
当面の敵
――というのを決めることにしたのだ。
稲本喜則
曖昧な物言い

 「曖昧な物言い」と言っても、土俵上に審判委員の親方衆が集まって、「う〜ん、安芸之島の足の方が先に出たように見えたような……」「えーと、勇み足、だっけ?」「でも、玉春日の右足もカカトが危なかったんじゃないかなあ」「う〜ん」「ようわからんなあ」「ここはとりあえず行司の顔を立てて、安芸之島の勝ちということにしておいた方がいいんじゃないかねぇ」「そうだなあ、そうすっかあ」などといい加減な相談をする、というわけではない。
 昨日、「と」について考えた。日本語には似て非なるものの存在がある。「や」というのがそれだ。

 戦争や平和

 どうです、この弛緩した態度。おそらくこんなタイトルで翻訳されたら、トルストイも人道主義をかなぐり捨てて、あの世から怒って出てくるだろう。

 罪や罰

 ドストエフスキーも同行するに違いない。ただし、

 月や六ペンス

 というのは、何か売れない若手芸人のようで、味わいがないでもない。「月家六ペンス」。おそらく、ドツかれることだけが唯一の芸、という情けない芸人だろう。

 最後にも「や」を付けると、いっそうひどいことになる。

 戦争や平和や
 罪や罰や
 存在や時間や

 あからさまにやる気がない。
 「や」というのは、しばしば物事を曖昧なままにしておく、「ま、そんなとこ」的な態度で用いられる。役所方面の文章によく出てくる「等」という言葉と似た働きがある。ある種の婉曲表現として用いられることもあるが、「あー、もう、一々考えるのがメンドくさいから、『や』で片づけとけ」という投げやりな態度で使われることも多い。正直言うと、僕もよく「や」、「など」、「さまざまな」などの曖昧な言い回しでテキトーに片づけてしまうことがある。
 日本語は、こういう曖昧な物言いを発達させている言語のようだ。英語圏からの帰国子女が、英語で話すとぴしぴしと論理的に話すのに、日本語になったとたん曖昧な物言いになってしまう、という話もある。わかるような気がする。
 おそらく、日本語が文法的に不備だからではないだろう。日本語でも話そう(書こう)と思えば、論理的に話す(書く)ことはできる。しかし、聞いたり読んだりしているうちの慣れで、ついつい曖昧な物言いをしてしまいがちなのだと思う。そういう言語文化を育ててきた、とも言える。
 僕としては、場合によって使い分けたいと考えている。「曖昧な物言いだからイケマセン!」とツリ目になる態度も、まあ、あるのだろうけど、おもちゃはいろいろあった方が楽しめると思うのだ。


稲本喜則
一九六六年、富山県生まれ。雑誌の編集を経て、フリーに。現在はコピーライティング、ウェブサイトの編集、雑誌記事執筆などを手がけている。一方で、「日記スト」と称して、「くだらないことをくだらないままに書く」をモットーに、一九九八年からウェブサイト上に日記を書き続けている。本書はその日記からの抜粋。主な著書はひとつもない。