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春日武彦著『本当は不気味で怖ろしい自分探し』刊行記念対談!
春日武彦(精神科医)×高橋秀実(ノンフィクション作家)
「本当の自分」の探し方
春日武彦さんの「Web草思」連載『本当は不気味で怖ろしい自分探し』の刊行を記念して、『からくり民主主義』や『トラウマの国』など、日本人の奇妙な精神性や「本当の自分」をテーマにした著作のあるノンフィクション作家の高橋秀実さんをお招きして、特別対談をおこないました。「自分探し」というテーマをめぐって、興味津々の話題の連続。じっくりご堪能ください。
高橋
『本当は不気味で怖ろしい自分探し』、面白かったです。じつを言えば、精神科医の方の書いた本というのは昔から怖いというか、ちょっと読みたくないというのがあったんですけど……。
春日
偉そうだからですか(笑)。
高橋
いえ、まだ大学生くらいのころだったと思うんですけど、精神科医の方が書いた本をいくつか読んでいて……いろいろな症例とかが書いてありますよね、そういうのを読むと、ことごとく「俺じゃん」と思っちゃうんです。「間違いなく私はおかしい、病気だ」なんて思って、怖くなっちゃった。それ以来、精神科医の方の書いたものは避けようという感じがあって。
ところが春日さんの本が違うのは、「僕もそうです」みたいに書いてあるから、すごく安心して読める。先生もおかしいのであれば安心ですから。
春日
みんな一緒にだめならまあ、いいかと(笑)。
高橋
そう(笑)。内容はグロテスクなこともあるんですけど、「僕もそういうところはあります」ということが書いてあるから、怖がらなくていい。
●「自分がない」という恐怖
高橋
今回の本は、最初から「自分探し」というのがテーマだったんですか。
春日
この本の冒頭に収録した話ですが、「自分の知らない自分はどこにいるのか」というテーマで、当時は紙の雑誌だった『草思』に、おなかにカッターで小窓をあけた男の話を書いたのが最初ですね。表に出てこない「本当の自分」なんて、ろくなやつであるはずがないという話です。高橋さんは「自分探し」の経験はありますか?
高橋
『トラウマの国』という本にもちょっと書いたんですけど、私は子供のころ「自分がない」という恐怖があったんです。学校で給食のときに、それまで勉強をしていた教室が、一転してぱっと空気が変わって「手を洗ってパンを食べましょう」となるのについていけなかったり、運動会では「なんで走らなくちゃいけないんだ」とか、もっとさかのぼると幼稚園のお遊戯の時間に「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」とか、ともかくいろんなことに違和感を感じていて、そういうのが積み重なって、小学校3年生ぐらいのころですかね、急に、「ここは何だ」「ここはどこだ」みたいな問いに襲われて。子供だからそれが何なのかはっきりとはわからないんですが、何となく「自分の輪郭がはっきりしない」「自分というものがない」と思ったんです。これがものすごい恐怖で、なにしろ「自分探し」と言っても「自分探し」をする主体がないんですから。そのことを漠然と悩みはじめたんです。
それで悩み相談とか人生相談みたいなものを読んでみるんですけど、そういういうのに出てくる悩みって、すごく具体的でわかりやすいんですよね。こういうのとはちょっと違うなと。そもそも自分の問いが何なのかがわかっていないから、これではないな、これでもないなという感じで消去していくわけですけど、どれも違って、どうもこれは「悩み」とは言えないんじゃないかと。そのうち母親が心配して、市民病院に連れていって精密検査を受けさせて、脳波とかいろいろ調べたんですけど、異常なしと言われて。じゃあ、病気じゃないのかなとは思ったんですけど……。
春日
違和感はしっかり感じているわけですよね。その違和感から、もっと世界にフィットする世界観を持ちたいとか、そういう発想には行かなかったんですか。
高橋
そうですね。この本のなかで春日さんは、子供のころ電車になりきったり戦闘機になりきったりして世界にフィットしていこうとしたという体験を書かれていますね。そこを読んで、なるほど、そんな方法があったのかと思ったんですけど、そのときにはそんなことは思いつかず、ただ呆然としていた感じです。ただ、それでも日常生活は送れるということが不思議でした。
●世界に対する違和感
高橋
春日さんは、世界とか自分に対する違和感みたいなものは、いつぐらいからあったんですか。
春日
僕も小さいときから、いろんなことがまったくわけがわからないという感じがありました。たとえば素朴な疑問として、街を歩いていてぜんぜん繁盛していない店なんかがあると、いったいここの家計はどうなっているんだとか、いったいどうやって生きているんだとか……。
高橋
それは非常に社会経済的な考察じゃないですか。
春日
いや、それだけじゃないんです。よくわからないけれど生きている人がいるのが不思議だというか。あるいは売れ残ったものは捨てているんだろうかとか、ペットショップを見れば、動物の死体がいっぱい出るだろうけどどうしているんだとか、そういうことからしてもう疑問の山なわけです。ありとあらゆるものがよくわからない。
逆に、つまらないことで世の中の仕組みがわかったような気持ちになって、すごくうれしかったりする。ウイークデーに公園で女房とだらだらとビールを飲んでいたら、定年退職のおじさんが引率されてぞろぞろと歩いて来てね。どうもガードマン会社に再雇用された皆さんらしくて、上の人間の号令のもと誘導か何かの訓練をしているわけ。それを見ながら、「ああ、そうか。こういう人たちがこうやって訓練して、世の中が成り立っているのか」なんて思ったり。結構くだらないことが新鮮に見えちゃったりする。
本にも書きましたが、僕の場合、そういうわからない不安を収めようというところからものを書き出したというところがあるんです。書いて、何か具体的な形を構築することで、魂を鎮めるというような。
高橋
魂を鎮める……。
春日
いや、結局鎮まらないんですけどね。でも、何とかわかるかたちにしたいから書いて、かりそめでも「わかった」という気持ちになりたいというところがある。たとえば精神科に来る女性が、妄想で「私はだれだれの親戚です」といったことを言うことがあるんですけど、なぜか「私は岸惠子の妹です」などと言う人に3人会ったことがあるんです。すると、3人も会ったということは何か意味があるだろうと思うわけ。「なんで岸惠子かな」「原節子のほうが格は上だろう」とか、「岸惠子はちょっとおフランスが入っているからかな」とか、いろいろ思うわけじゃないですか。男にはわからないけど、女から見るとインテリジェンスに魅せるものがあるのかとか、何か法則性でもありそうで、ぐっと来る。そういうことがあると、それを書いておかずにはいられないみたいな気がして。 いままでばらばらだったものをつなぐようなものが見えてくるのは、すごい喜びじゃないですか。小谷野敦さんがどこかで、「人間にとって退屈しのぎの一番高度な洗練された方法というのは、世の中を分類して、自分なりに分節し直すことだ」というようなことを書かれていたんですけど、それを読んだときは、なるほど、その通りだと思いましたね。
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