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「紙と日本史の関係」を初めて解き明かした労作
日本は古来、「紙」の国だった――
和紙の力で鎮護国家を築いた聖武天皇。
和紙が支えた徳川の天下泰平。
古代から現代まで、「和紙の国」の十一の知られざる物語
日本の伝統文化の中で、和紙ほど、常に日本人のそばにあり続けてきたものはありません。
和紙は、日本人の心情に訴える精神性をも備え、国家経営から芸術、日常生活への寄与まで、驚くほど広範に能力を発揮してきました。
本書は、これまで長い歴史を黒子として生きてきた和紙に光を当て、日本史を読み直すユニークな書です。
ここでは、同書の「はじめに」を抜粋・紹介いたします。
(担当/貞島)
・はじめに
二世紀の初め、後漢時代の中国で、初めて植物の繊維を漉いて文字を書くのに適した紙が作られた。紙誕生以前の世界の書写材としては、石や粘土板、木や竹、パピルス(葦に似た草から作った紙のようなもの)、木の葉、動物の皮や骨、絹布などがあった。しかしこれらは、筆記性や扱いやすさ、運搬や保存、量産、価格などの面で課題があった。そこに登場したのが、紙である。紙は、人類が初めて手にした、極めて実用的かつ大量生産も可能な、最高の書写材であり、コミュニケーションツールだった。
日本古来の製法による紙を、「和紙」という。日本に豊富にあった楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの植物の繊維を原料とし、手漉きによって作る。紙質が強く、吸湿性に富み、保存性にも優れ、風合いも素晴らしい。
和紙は、単なる書写材ではない。日本画や浮世絵などの画材から、障子・襖・衝立・屛風などの建具、行灯・扇子・うちわ・傘・懐紙・ちり紙などの日用品に至るまで、古くより日本人の生活や文化は、常に和紙とともにあった。これほどの用途の広さと機能、美を併せ持つ紙は、紙発祥の地である中国にも、西洋にも存在しない。和紙は、一般的に考える紙という枠組みを超えた、世界に類を見ない存在なのである。
その和紙の歩みをたどると、これまで知らなかった日本史の側面や、日本文化の真髄、日本人の精神性が見えてくる。和紙は日本史の支えであり、日本人の心そのものなのである。
本書では、全十一章にわたり、古代から現代まで、和紙が日本人の歴史や文化において果たしてきた知られざる役割を綴っていこうと思う。ここでは、そのさわりを少し紹介しておこう。
◉三世紀の「魏志倭人伝」にある、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏から国書を受け取り、魏に返書をした(二三九年)話は有名である。しかし、問題は卑弥呼が返書を何に書いたか、である。年代からすると、魏の国書は最先端の書写材、紙である。その返事に木や竹、布などを使っていては、国威にかかわる。ところが、当時、邪馬台国が紙を作っていたという証拠はない。卑弥呼はどうしたのだろうか(第一章)。
◉日本に紙作りの技術を伝えたのは、古墳時代(三世紀後半~七世紀頃)に朝鮮半島や中国大陸からやってきた渡来人だった。では、日本人はいつから自前の紙漉き技法を開発して「和紙」を作るようになったのか。奈良時代(八世紀)の正倉院文書の用紙の分析などを通じて見えてきたのは、日本人がある時期から、極めて高度で手間暇のかかる独自の技法で紙作りを始めた事実である。「和紙」が誕生したのである(第二章)。
◉ついに日本社会に登場した和紙は、奈良時代、盛大に花開いた。仏教を軸に据えた国家経営を目指す聖武天皇が東大寺を中心とした大がかりな写経事業を展開し、膨大な数の経典用紙が生産されたのである。当時は、宮廷の権力闘争が激しさを増し、疫病・地震・飢饉も相次ぐなど、国家大変の時代だった。そこに立ち上がったのが和紙で、仏教の力で国に安寧をもたらし、国威発揚にも寄与したのである(第三章)。
◉平安中期に誕生した『源氏物語』。その成立の陰にあった和紙の貢献は、あまり語られたことがいない。当時の女流文学者たちが平仮名を書く上で、和紙と紙巻筆(穂先が毛と和紙でできた筆)は最高の書写材だった。また、紫式部は若かりし頃、父の越前国国司(地方官)赴任に従い和紙の里・越前で暮らしたが、その時の見聞がのちの源氏物語執筆に役立ったと思われるのである。光源氏と友人の頭中将が恋文について話す場面では、使われた紙の色や風合い、染み込ませた匂いなどが物語をポイントになっていた(第四章)。
◉時は平安末期、平清盛は瀬戸内の厳島神社に絢爛豪華な装飾料紙(色や模様をつけた和紙)で作った経典(平家納経)を納め、一族の栄華と西方浄土への往生を願った。装飾料紙は、金銀の箔、雲母摺(きらず)り(雲母の微粉を用いた装飾)、漉き模様など、様々な意匠を凝らした紙の芸術で、平家納経はその極地だった。現在、平家納経はユネスコの文化財に指定され、平家の名を世界に広めた。和紙は、世界最高峰の芸術といえる地にまで到達したのである(第五章)。
◉鎌倉中期、中国から禅とともに水墨画が日本にやってきた。室町期の水墨画の大家・雪舟は水墨画の余白を重んじ、そこに心を遊ばせた。世界的経営学者ドラッカーも、日本の水墨画の余白に惹かれた一人だった。雪舟はもっぱら中国製の紙を使ったが、和紙における画の余白も魅力的である。日本人にとって余白とは何なのだろうか(第六章)。
◉桃山時代・江戸初期の本阿弥光悦に始まる絵画の一流派で、きらびやかな大和絵(やまとえ)が特長の琳派(りんぱ)の屛風が、今に多く残っている。屛風はもとは中国・漢の時代の風除け(衝立)で日本には七世紀に輸入されたが、その後、独自の発展を遂げた。最大の画期は、鎌倉末期に和紙の蝶番(ちょうつがい)が誕生したことにより、屛風が折りたたみ自在、かつ画面を傷つけず、各面同士の隙間も作らないという精巧な芸術品に変貌したことである。琳派屛風の陰の立役者は、和紙だったのである(第七章)。
◉江戸時代は、和紙全盛の時代で、徳川の天下泰平を支えたのは和紙と言っても過言ではない。紙の生産量は江戸時代を通じて右肩上がりで、生活のあらゆるものに和紙が使われた。その和紙生産を担っていたのが、主に西国の各藩である。周防岩国藩は貧しい藩財政を支えるために専売制による半紙生産に注力し、藩士自らに大坂の商人との売買交渉をさせる一方、紙生産者である藩の農民たちには様々な配慮を見せた(第八章)。
◉もう一つ、江戸時代の和紙で特筆すべきことは、浮世絵への貢献である。和紙は浮世絵の木版多色摺りに耐えうる強靭性を備え、ふんわりした素材感がそのまま作品の芸術性を高めた。浮世絵用の和紙には越前奉書(ほうしょ)などの高級品もあったが、一般的には楮紙(こうぞがみ)などを使った安価なものが多く、浮世絵最大のパトロンは庶民たちだった。高い芸術性を持つ絵画が大衆社会から生まれたのは、和紙を持つ日本だけである(第九章)。
◉明治を迎え、日本各地の和紙産地に激震が走った。洋紙の登場である。パルプを原料とする機械抄(す)きの洋紙は、大量生産・印刷に適しており、品揃え豊富、かつ安価で、文明開化に伴う膨大な紙需要の多くを奪い、ついには「和紙風の洋紙」なるものまで登場した。この和紙未曽有の危機に、和紙の里・越前はどう立ち向かったか。彼らの知恵と懸命の努力は、少しずつ実を結び、和紙の伝統を今に伝えていくことになる(第十章)。
◉そして現代、和紙は世界に羽ばたいた。二十世紀末のベネチア・ビエンナーレで、日本画家・千住博が越前の手漉き和紙「雲肌麻紙(くもはだまし)」を使って大地の根源から流れ出す滝を描き、世界的栄誉を手にしたのである。大自然や天地の始まりなどをテーマとする千住作品は、羽田空港の国際線ターミナルなどの公共空間でも展示され、草木から生まれた和紙に備わる自然の力で現代人の心をやさしく包み込んでいくのである(第十一章)。
日本のあらゆる伝統文化の中で、和紙ほど、常に日本人のそばにあり続けてきたものはないだろう。日本の歴史、日本人の心は、和紙なしでは語り得ないのである。
さあ、和紙とともに、古代から現代までの日本の歴史と文化の歩みをたどってみることにしよう。「和紙視点」の興味深い歴史物語は、今を生きる日本人にとって新しい目となり力となってくれるはずである。
目次より
第一章 日本人と「紙」との出会い
第二章 正倉院文書に見る古代の和紙作り
第三章 和紙の力で鎮護国家を築いた聖武天皇
第四章 和紙と紙巻筆が生んだ源氏物語
第五章 平家一門を西方浄土に導いた装飾料紙
第六章 雪舟の水墨画と日本人の心
第七章 和紙の蝶番が拓いた屛風芸術
第八章 和紙が支えた徳川の天下泰平
第九章 浮世絵は和紙の本懐
第十章 和紙の里・越前の文明開化
第十一章 現代人の心を包む和紙~日本画家・千住博の雲肌麻紙~